All the abstracts and articles are uploaded by the permission of the authors, and their copyrights belong to the authors and the Society.
すべての要旨・本文は著者の意志に基づいて公開しており、その著作権は著者および研究会に帰属します。
Note: * indicates a thesis/an article in English, ** in German and *** in French; otherwise theses/articles are written in Japanese.
凡例: *は本文の執筆言語が英語であることを、**はドイツ語、***はフランス語であることをそれぞれ示す。無印は日本語。
この論文の主な目的は、日本人の故郷観の起源史をたどることである。近代以降日本人が抱いてきた特定の故郷観を引き起こした原因を三章に分けて考察する。その原因とは、(一)地方から都市へと大量の人々が流入したこと、(二)風景の概念が「発見」されたこと、(三)国民国家が成立したことである。この三つの原因を軸にして、日本人の故郷意識の歴史的な変容を分析しながら、「ふるさと」に対する変わらない愛情と執着にも目を向けたい。
明治期に地方から大量の人が都会に流入したことにより、大勢の人々が故郷意識をもつようになった。その急速な近代化過程において、大きな推進力の一つは立身出世主義であった。しかし、都市が大きくなるにつれて田舎は徐々に荒れていった。その結果、心のふるさとは無事であっても、田舎にある実際のふるさとの美しさは次第に失われていった。そのため、ふるさとは特定の「場所」から、抽象的かつ普遍的な「概念」へと変わっていった。
ふるさとはしばしば「日本の原風景」と言われることがある。原風景とは、人の心の奥に潜在する最初の風景であり、懐かしさを伴うことが多い。しかし、柄谷行人によると、日本では「風景」の概念は明治三十年代まで存在しなかった。自然を「風景」として見るのには、特別な視線が必要となる。それは、自然を自分の外にある客体対象として見る視線なのである。風景が「発見」されたとき、人々は初めてふるさとを客観的な風景として見ることができた。
現在のふるさとイメージが代々受け継がれる理由の一つは、唱歌の教育である。国民国家の重要な教育道具として、唱歌は音楽教育の題材として国民教育に取り入れられた。唱歌を通して子供たちに道徳や国家イデオロギーを教えることがその主な目的であった。唱歌である『故郷(ふるさと)』も同じ役割をもっていた。『故郷』は、日本人の誰もがふるさとをもっていることと、その故郷が自然豊かで、ユートピアのような場所であることを教えた。
日本人の故郷観において近代化の影響は大であった。ただ、日本人のふるさとに対する執着だけは近代化や工業化があっても変わらなかった。時間の経過でふるさとの外見は確かに変化を見せたが、ふるさとの本質は未だに動じないのである『故郷』が作られてから百年が経とうとしている。『故郷』が今まで歌い続けられてきたのは、特定の場所よりも、心のふるさとを意味しているからなのであろう。
女性用衛生用品の広告における月経の表現には、月経のクローゼットに対する女性の征服が含まれている。それは本質的に、月経の忌避や隠ぺい、およびそのことによって経験を正常化するという抑圧的な過程である。これらの広告は女性、とりわけ月経に関する社会的なルールを再生産する文化モデルとして機能している。この意味で、広告は日本とコロンビアの社会文化的文脈の一部を理解するための役割も果たしている。
本論文の基本的な目的は、広告の裏に隠れた月経のクローゼットの表象を明らかにし、それによって、女性の行動様式や考えを支配している一連の抑圧的なルールを特定することである。
本論文は、月経の表現を視覚化することおよび文化的価値観、広告、製品にフェミニストの視点から批判的思考を提示することに資する。単に生物学的な言説として月経が語られるときには、これは「自然な」ものであり、したがって「修正不可能なもの」としてとらえられている。しかし実際には、生物学的な視点は政治的、社会的、文化的な構造で語られ、それらの影響を受けているのである。
したがって本分析は、月経や女性の身体のイデオロギー的な意味を伝え再生産する言説を使用して月経の表象がいかに構築されているのかを実例から探り、自然と思われているものがいかに不自然かを明らかにするものである。つまり、月経をどうとらえ、月経に対してどのような価値観を持つかは、自然なものでも天性のものでもない。むしろ人工的に構築されたものであり、その構築は女性用ケア製品の広告によって遂行的に実現されているのである。
生理のクローゼットという言葉は、イヴ・コゾフスキー・セジウィックのホモセクシャルのクローゼットの経験からアイリス・マリオン・ヤングが構想したものである。この分析の視点はクィア理論の流れに沿ったものであるが、性的な生物についてまわるスティグマと規範的なヘテロセクシャリティから逸脱する行動の違いを拭い去ろうとするものではない。ホモセクシャルのクローゼットについての考察は、規範的なヘテロセクシャリティの中に位置づけられる清潔で適切な文化基準による正常を熱望するシステムに、ホモセクシャリティが陥った罠のジレンマを述べている。このようなホモセクシャルのクローゼットについての考察を、月経に対しても同じ「クローゼット」というメタファーのもとに応用するとき、月経を病的で、不潔、さらには恐ろしい存在とみる文化の中で正常な人間になろうという月経のある女性をとらえる葛藤や個人的な恥の意識を探る余地が与えられるのだ。
月経を不潔、病的、汚れのある、面倒な、うんざりするものとして正当化するステレオタイプや二項対立を解体することが必要不可欠であると考える。それは、月経をクローゼットの中に閉じ込めて、男性の正常に含めることではない。忌避的、不合理、不潔、病的だととらえられている月経を、月経や心と身体を統合する女性の存在を確認する観点から我々の生命をとらえることを可能にする身体体験として露わにするということである。このような月経の肯定的な評価は、ステレオタイプやスティグマからの解放を求め、ある文化の中で女性の生活を制限するエチケットやルールを取り除くというフェミニストの葛藤の一部である。
月経は我々の身体表現であり、芸術的、魅惑的、ミステリアス、パワフルなものでもあり得るのだ。それぞれの文化や宗教において、月経はそれぞれ異なる意味を持つであろう。しかしいずれにせよ、月経の経験を通して我々は自己認識を向上させ、我々の身体や世界への身体的つながりについての知識を深める機会を手にしているのである。
(with no abstract)