文理両道のすすめ
文理両道のすすめ
文理両道のすすめ
ICU 岡村秀樹 (2011)
1.日本の教育システムの特長ー文理分け
日本の教育システムの大きな特徴は「文理」である。イギリスやアメリカでも、コース分けが無いというわけでもないが、クラスごと全く別々に構成されて完全に両者を分離してしまうのは日本独自のシステムである。この制度が導入された当初、日本は発展途上国であり、効率的に事務官と技術者を養成する必要があった。これは働き蟻を作るのには有効であるだろうが、当然、弊害もある。 最近の日本の諸問題は、このシステムのつけが回ってきた結果にも思える。そうだとしたら、この弊害を最小限にとどめるべく、この欠落した部分を補う教育をするべきではないだろうか。そのような、教育の「補完」によって、日本の社会はよりよい方向に変わって行けるのではないかと期待される。
2.文理の隔絶と2つの文化
日本では高校の段階から理系文系コースと学生を2分してしまい,高校では理系の科目を取りたくても取らせてもらえなかったり、そもそも理系の人数が少ないため開講されていないことも多いと学生からも聞いている。文系の学生は理系の授業からも、また理系学生からも物理的に分離させられてしまっており、意欲的な学生からすらも理系の考え方に触れる機会が奪われてしまっていると感じる。大学入試は理文で受験科目が異なるため,高校も予備校もそれぞれ受験に必要のない科目はあまり教えない。高校においての未履修問題も記憶に新しいが、これも結局は受験対策のためであった。
悪いことに大学に入っても事情は同様である。文系理系は別々の講義を受け、別々の教育を受ける。このように2つに分けて教育すると、理系文系の学生が互いに深い話し合いをする機会も少ない。単科大学はもちろん総合大学であってもキャンパスが別の大学も多い。授業の中で文系理系の学生の意見を同じ割合で取り上げ考えさせるようにすると、理系の学生、文系の学生、それぞれから互いに相手との考え方の違いに驚いたというコメントが得られる。これが気づきだと思う。全く異質の考え方が存在するということを知ることが大切なのだが、このような経験の機会が少なすぎる。
この気づきを大学生の間に体験することは極めて重要である。社会に出れば職業によってその勤務場所すら分けられてしまうのが普通であるからそのような機会はさらになくなる。人間を2つのグループに分ければそれぞれが独自の文化を持つようになる。同じ言葉でも違った意味に用いているし、論理も両者で全く異なっている。全く別の文化が目の前にあるのにその存在にすら気づいていない。
3.「2つの文化」の問題点 ー 日本の教育システムで抜け落ちる「教養」
文理の分離の弊害、それは互いに互いの考え方を理解することができないことである。理系の人間と文系の人間が,互いに全く別のアプローチを持っているのだから,協力し合えば多くの社会問題が解決できるはずである。それができていないのは大変な社会的損失である。それがさまざまな事実誤認や判断ミスにつながっている。
人間は自分に足りないものを自分では気づくことは無い。リンゴを知らなければリンゴを欲しがることも無いし、見てみようと思うこともない。日本には2つの文化があるのに、それに気づくことがない。これが、日本の教育システムの中で、すっぽりと抜け落ちてしまう教養であり、人々が自分では決して気づくことのない部分である。
4.状況を改善するために何をすればよいのか?
2つの文化を今すぐに解消することは難しい。それは入試制度だけでなく、大学のあり方や、社会制度までをも変革しなければならない。ならば、今緊急に行わなければならないことは、2つの文化を理解する「文理両道」の人材を育てることだと思う。それは、断片的に両者の知識をもっているということではなく、両者のロジックやフィロソフィーを理解しているということだ。そして、そのような人が仲立ちとなって知を結集し、これからの難しい課題を解決していかねばならない。
5.なぜ、文理融合ではなく、文理両道なのか?
2つの文化、それをS-cultureとH-cultureと呼ぶが、は、全く相容れることのない面を持っている。一言で言えば、「真実」を自分の中に置くか、外に置くか、ということであり、その人の判断基準(=常識)になっているものである。2つの文化を融合することは不可能であり、できることは、両方を知ることだけである。例えて言えば、英語と日本語を融合することはできない。(つぎはぎすることはできるが、それは融合ではない。)しかし、バイリンガルになることは可能である。文理は融合はできないが、両道になることは可能である。