DHMO事件に見る現代人の“自然”への執着心
~化学物質は信用ならない?~
DHMO。今回の課題のプリントが回ってきた時に、最初に目に飛び込んできたのがこれだった。これ、何だろう。ふむふむ・・・うわ、こんなものがあるんだ。大変じゃん。やばいじゃん。でもこの「謎」ってなんだろう。早く知りたい。気になる!授業が終わったらすぐ見に行っちゃあおうかな。うんうん、そうしよう。そんなことを考えていたところ、隣でやたらとうずうずしていた私の気持ちを察したのか、もう既に答えを知っていたらしい友達が一言。「これ、謎の答えを見る前の自分が何を考えていたのかをちゃんとメモしとくといいよ。後で絶対後悔するから。」
というわけで、そのアドバイスを実行した私は、この文章を書いている今現在、まだ謎が何なのかを調べていない。早くサイトにアクセスしてしまいたいのだが、それを見る前にここに今どう思っているかを綴っておこうと思う。まず、私はこの物質を知らない。聞いたこともない。しかし友達が知っていたことを考えると、もしかしてこれって有名なことなのだろうか。もはや常識だったりして。だとしたら恥ずかしい。とりあえず理解したことは、とてつもなく恐ろしい物質であるということだ。というのも、ネイサン・ゾナー君が挙げた紹介文のうち、(1)~(9)まではなんとなくそのまま読みすごすことができたのだが、それ以降の文を読んで唖然としたのだ。「不妊男性の精液」「胎児の羊水」「癌細胞」「ジャンクフード」「農薬」「河川」に流れているなんて。それってつまり既に生活のみならず人間の体内に侵入しているということではないか。なんということだろう。しかも世界的に見てもアメリカ大陸と南極から検出されているということは、もしかしなくても日本でも検出されているのでは。ということは私の家族や友人も摂取しているのだろうか。そういう私も?その可能性は十分ある。なんでもっとこういうことがニュースにならないのだろう。本気で不安になってきた。高校の保健の授業で習った、環境ホルモンの一種だろうか?それとも食品化合物か何かだろうか?いずれにせよ人体にとって害であることに間違いはない。私の少ない知識ではそう予想するのが精一杯だ。さあ、一通り感想を書いたところで、今から念願の答えを見てみるとしよう。どきどきする。
・・・・・なんだ、そういうことか。あははは。確かにこれは答えを知ってしまうと見方がガラっと変わってしまう質問だ。いい忠告をしてくれた友達に感謝したい。それにしても、まさかこんなオチとは。DHMOとは何か?答えはDihyrodogen Monooxideの略。要するに水。私たちが生まれた源であり、体の6割を構成し、生物が生きていく上で必要不可欠な、水。だったのだ。確かに今こうして危険性のリストを読み返してみると、どの文も明らかに水のことを説明している。特に(5)の「大量に摂取すると(略)最悪の場合死に至る」という点。そりゃそうだろう。「DHMO」の性質がどうのではなく液体なら何だってこれに当てはまるはずだ。でもこれは今こうして答えを知っているからこそ思えるのであって、先ほどは全く気づかなかった。水なんて言葉、頭をかすめもしなかった。私が思ったのは、環境ホルモンだの、食品化合物だの、いわゆる「害」だけだった。
この賢いネイサン君から署名を求められた場合、私はただちに応じただろうか。ああ、応じていただろう。それだけでなく、場合によっては彼と一緒になって署名活動を広め、さらに信者を増やしていたかもしれない。これは上の考察を見ても明らかだ。今となっては我ながら馬鹿なことを考えていたなと思うが、答えを見る前は完璧に踊らされていた。それも全く疑うことなしに。彼の話術にすっかりハマってしまっていたのだ。同じく騙されたという47人の大人と同じように。
この件を通じて、思ったこと。個人的にとにかく痛感したのは、「情報操作がいかに簡単であるか」ということである。情報操作なんていうと大げさに聞こえるが、ネイサン君がしでかしたのはこれ以外の何ものでもない。初めから露にしてしまえば誰も振り向きもしないであろう、一般的には安全と認識されている「水」という普遍的な物質を隠し、あたかも過激な危険物質であるかのように書き上げることで、人の恐怖心を煽り、見事に「規制への賛同を得る」という当初の目的を果たしたのだから。彼が挙げた文章はあくまでも事実を前提にしているとはいえ、限りなく危機感を誇張した文章で、少なくとも印象的には偏っている。これは立派な情報操作といえる。
そのことに気づいたとき、ふと私は最近ますます過激になりつつあるナチュラル志向ブームを思い出した。最近という定義には語弊があるかもしれない。なぜなら基本的には数年前からずっと水面下で起きているからだ。例えば数年前に流行った「買ってはいけない」という本。これは元祖・化学物質反対本と呼んでも過言ではないだろう。本来であれば商品を宣伝するのが筋である出版社側が、あえて商品に入っている化学物質の問題点を指摘し、“これこれこういう理由から買ってはいけない”という厳しい批判をするという異様の本で、その斬新さから瞬く間にベストセラーの仲間入りを果たした。売り上げ200万部突破というあまりの反響に次々とシリーズ化され、ついこのあいだ2006年バージョンが出たばかりでなく、これに反抗する「買ってはいけないは買ってはいけない」なんていう本まで発売されたほどだ。例えばヤマザキのクリームパン(資料1参照)。これによると、この定番の菓子パンの一番の問題は「合成保存料ノソルビン酸カリウム」だという。詳しい解説によると、『ソルビン酸を落花生油あるいは水に溶かして、ラットに皮下投与したところ、がんが発生したとの報告がある。ソルビン酸は、ピーナッツクリーム、ハム、ソーセージを使った菓子パンに使われている。ハムやウィンナーソーセージ、ベーコンには、変色防止の目的で毒性の強い亜硝酸ナトリウム(発色財)が使われているので、いっそう注意が必要だ。これは胃の中で魚肉や食肉に含まれるアミンという物質と結びついてニトロソアミンという強発ガン物質に変化する。ニトロソアミンは飲料水や資料にわずか1~5ppm含まれるだけで、動物がそれを食べ続けると、がんが発生する怖い物質』であるらしい。よって『できれば、イーストフードを使っていない食パンを買ってほしい。それが無理な場合でも菓子パンよりは食パンの方がいい。添加物の使用が少なく、保存料も使われていないからだ。表示をよく見て、添加物の少ない製品を選んでほしい。それが、自身の健康保持につながると同時に、不良な製品を市場から駆逐する力となる』と作者は結論づける。こういった具合で進むのがこの「買ってはいけない」シリーズなのだ。確かに言われてみればそうなのかもしれないが、ここまでウンチクを並べた本がシリーズ化され、かつ売れたというのは若干驚きである。しかし少なくとも世間では大ヒットしたこの本の影響を受け、さらに「買ってはいけない○○」「本当は怖い○○」系列の本が出版されたのはまぎれもない事実だ。それらの本を通して世間ではますますナチュラル志向が高まったのは言うまでもない。
また、これは最近の事態であるが、化粧品に対してもこういった傾向が高まっている。それは日本最大の化粧品の口コミサイト、@コスメ(http://www.cosme.net)で見ることができる。このサイトは数年前に開設されてからというものの、「多くの人が本音で評価しているから雑誌やCMなんかよりずっと頼りになる」という女性の圧倒的な支持を受け、急速に成長した有名サイトである。今では化粧品メーカーまでもがそこでの書き込みに注目しているらしく、ついこの間もテレビで特集が組まれていた。そういう私もたまに覗いてみるのだが、半年くらい前からあることに気づいた。化粧品の成分を必要以上に気にする書き込みが増えたのだ。それはこういった感じの書き込みである(資料2参照)。成分一つ一つに過剰に反応しているのが見てお分かりだろう。ここで特筆すべきは、この利用者はまだ20代前半だということだ。私はサイト開設当初からこのサイトを観察してきたわけではないので正確に測定することはできないが、以前はこうした書き込みはたまに神経質な30代以上の主婦などが指摘するのをちらほら見かける程度であった。それが驚いたことに今ではこうした20代、そして最近だと10代の利用者にまで伝染しているようである。実はあまりにもこういった批判が相次いだため、そういう書き込みは「ライバルメーカーの嫌がらせなのでは」という疑惑まで浮上し、最近ではサイト運営側が書き込みの内容によっては強行削除するという混沌とした事態にまでなっているらしい。いずれにせよ、それだけそういった反響があるということは、ナチュラル志向が化粧業界でも重視されているということの証拠に他ならない。
さて、こういったナチュラル志向が一体DHMOとどう関係があるのか。一見、両者は全く畑違いの話である。しかし、よくよく考えてみると、実はこれらは基本的には全部同じことなのではないだろうか?少なくとも私は、DHMOの正体を知った瞬間、「買ってはいけない」や@コスメの書き込みを見た時に感じたものと同じ何かに支配されたような感覚に襲われた。そう、情報操作である。ナチュラル志向とDHMOはどちらとも情報によって作り上げられた虚像だ。化学物質を「敵」だと問題視する情報――こういう絶好のエサが、影響力のある書き手に握られ、巧みに言葉を混ぜ合わせて発信された時、それを受け取るレセプターである大衆はいとも簡単にころっと騙されてしまう傾向にある。全てを鵜呑みにすることはまずないにしても、それが「問題」であると認識をする人は多い。そしてそういう人は回避方法があるのであればそれを、と、できる限りの対抗策をとる。「買ってはいけない」の例で言うと、菓子パンでなく食パンを買うことで。@コスメなら、「もっと安心できる成分」の商品に変えることで。DHMOに対しては、(効果のない)署名をすることで。知らなければ気にも留めなかったかもしれないのに、情報を受信してしまったがために問題心が芽生え、行動に移してしまう。いったんそういう人が増えると、マスメディアが注目し、さらに煽りたてる。それを見てますます人口が増加する・・・少し前までは波打ち際にあった波が津波に引き込まれていくような勢いで、大衆の反響を引き起こす。いわゆる「ブーム」とは、ほとんどがこうやって起きているのではないだろうか。
ここで断っておきたいのは、DHMOにしろ菓子パンにしろ化粧品にしろ、人体に直接影響があると思われるものに対してある程度気を使うのは当然であるということだ。しかしながら、それが目に見えて過敏になりつつあるのは上の例が示すとおりである。周りを見るだけでも、テレビや雑誌、スーパーやレストランなどで、ことあるごとに「自然派」「オーガニック」「無農薬」「無香料」「無添加」といった言葉がやたらともてはやされていることに気づく。怪しい宗教やデート商法の被害者がよく買わされる浄水器や空気洗浄器だって、もとはといえば化学物質は良くないという考えを逆手にとった商品である。いつの間にか「ナチュラルさ」が無条件で崇められる時代になってしまったのだ。いつからだろう、それが品質を図る基準にまで昇進したのは。そしてそれが当たり前になってしまったのは。
別にナチュラル志向が悪いとは言っていない。化学物質が良いとも言わない。どちらかを選べというのも無理な話であるし、そもそもそういった選択は個人の判断に任されるところだからだ。ただし、一つだけ言えることは、むやみやたらに化学物質を恐れてしまっては本末転倒であるということである。とりあえず自然っていいよね!ナチュラルって大切だよね!・・・どういいのかって聞かれてもよく分からないけどさ。なんていう安直な考えを持ったままでいると、何が問題なのかさえ把握できないほど判断新が失われてしまうと思う。DHMO規制に署名してしまった大人なんかはいい例だ。
「誘い水」。以前「世にも奇妙な物語」というオムニバス形式のドラマで、こんなタイトルの作品があった。ある日主人公の元に突然ダンボール箱が送りつけられてくる。開いてみると、ミネラルウォーターのボトルが大量に入っている。「これは体の悪い物を誘い出してくれる魔法の水です。限られた人にしか飲む権利はありません」という売り文句に心をくすぐられ、飲み始めたところ、これがおいしい。その日からす水道水を飲むことを止め、水は全てこの魔法の水を飲み、なくなったら注文し、さらに飲み続ける主人公。しかしある日いつものように注文してみると、電話が繋がらない。だがこの時点でその水しか受け付けない体質になってしまっていた主人公は、もはや中毒になっており、諦めることができない。ついに自らその水の源である湖を捜しに行くことを決心する。すると、同じように誘い水を送りつけられた人が自分と同じく湖を探していることを知る。争いの末、ついに湖を見つけ、勝ち取る主人公。ところが我を忘れて飛び込んでいったところ、なんとその水に飲み込まれてしまう。その翌日、主人公の職場の同僚にダンボール箱が届く。そこには「誘い水」と書かれていた・・・という象徴的な話だった。
偶然にもDHMOと同じく「水」がテーマであるこの作品、どこか共通点を感じるのは私だけだろうか。化学物質に固執してやたらと問題視する人間はこの主人公に似ている気がする。‘悪いものを誘い出す’という言葉に騙され、自分自身が誘われ誘う側になってしまった主人公。14歳のネイサン君が皮肉たっぷりに提示してくれた、DHMOという架空の物質に恐れるがあまり署名までしてしまった47人の大人。これらは将来の私たちの姿なのかもしれない。情報に流されるがあまり判断力を見失い、底なしの沼に足元をすくわれてしまうようなことは避けたいものである。