DHMOという「プロパガンダ」
このコースを通して、水という物質が私たちの生にいかに深く関わっているかということを学んだ。またレポート課題では、水の姿がメディアによって多様に報じられていることがわかった。その多くは、水が汚染され、必要以上に使用されている現状を述べ、昨今の異常気象の原因を人間の営みに求めるとともに水の大切さをうったえるものが多い。そんな中で、アメリカのネイサン・ゾナー君という少年はショッキングな描写で水を表現した。その一部を挙げると、
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無色・無臭・無味であるが、毎年無数の人々を死に至らしめている。
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妊婦が摂取すると、胎児にも胎盤を通じて体内に入り込むことが確認されている。また、世界の主要な都市圏に住む女性の母乳中からは85%以上の割合で高濃度のこの物質が検出されることが知られている。
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犯罪者の血中、尿からは大量に検出される。暴力的犯罪のほぼ100%が、何らかの形でこの物質が摂取されて24時間以内に発生している。
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急激な気化によって大爆発を起こす。
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農薬散布にも使われ、汚染は洗浄後も残る。
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沖縄や横浜の米軍基地、原子力空母にも大量に備蓄されていることが確認されているが、国会で問題になったことは一度もない。
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末期癌の腫瘍細胞中にも必ず含まれている。
ネイサン君はこの物質をDHMOと呼び、水であることを伏せた上で50人の人にDHMOの使用規制に関する署名を求め、実に43名の署名を得たという。
問1.このようにして署名を求められた場合、直ちに応じるか?
私がDHMOについて初めて知ったのは、実はこの課題に取り組むよりも随分前のことであったが、その驚きは今でも憶えている。ある友人から「こういう怖い物質があるんだよ」と言ってウェブページを紹介されたのがきっかけであった。私は「こんな恐ろしい物質が、どうして今まで何の規制もされずに使われてきたんだろう?もしかしたら私も、知らないうちにDHMOを摂取してしまっているのではないか」と不安を覚え、種明かしをされるまでこの物質が水だとは思いもしなかった。だから、もしも私が署名を求められたならすぐに応じていただろう。ネイサン君の提示した「DHMOの害」では、化学的影響・人体への害・環境への影響・爆発性・軍事的影響など様々な面において全ての項目が否定的に説明されており、これを読んだ人に直ちに署名させてしまう説得力があると感じた。ただ、ネイサン君の提言で述べられていることはすべて実際の水の性質であり、否定的な語り方ではあるが、水の性質について嘘はついていないと言っていいだろう。
2.DHMOとは一体何か?
既に述べたとおりDHMOとは水のことを指すが、これはDihydrogen Monoxide、日本語では一酸化二水素と言って水の構造をわざと聞きなれない名称で呼んだものである。しかし私は当初、DHMOが水であるとわかるまで「まったく聞いたことがないが、これから社会問題になりかねない、影響力の大きな化学物質なのだろう」と漠然としたイメージを持った。さらに、ネイサン君の提言にあった「DHMOの害」の恐ろしさと重なって、この物質が何だかとても得体の知れないもののように感じられた。
実のところ、ネイサン君の意図はこの点にあるようだ。DHMOは単なる「ジョーク」である。読む人を感情的にさせやすい言葉や極端な説明によって、人がいかに騙されやすいかということを示したひとつの「実験」だったのである。
3.DHMOについて、何を感じ、何を考えるか?
ウェブ上で「DHMO」を検索すると、国内外で約17万3000件ものウェブページがこれについて言及していることがわかった。そのいくつかを見てみると、それらがDHMOについて述べていることに共通点があることがわかる。上記のように、DHMOがジョークであることを明かしているのは言うまでもない。共通しているのは、物事の一面のみを偏った表現によって強調することの危険性と、そのような表現を使用した主張にほとんど無意識的に取り込まれてしまう人々に対して警鐘を鳴らしている点である。つまり、様々な種類のプロパガンダに対する批判と、プロパガンダの対象となる人々への注意喚起がなされているのである。
ネイサン君のDHMOに関する説明は、人々を感情的にしやすい話題と言葉を意図的に選んでいる点で、プロパガンダの性質を備えていると言っていいだろう。DHMOの害について述べられた項目を見てみると、死・病・有害・毒性・暴力・犯罪・遺伝子操作・事故などのネガティブなイメージや恐怖感を与える言葉、もしくはそれを連想させるような言葉が多用されていることがわかる。また、「米軍基地」「国会」など政治的感情を煽るような言葉が使用されているところも特徴的だ。また、それらの言葉を使って現代社会で特に問題となっている事柄、国民の関心が集まっている話題に結び付けていることも、DHMOに込められた「うまく騙す」仕掛けと言えるだろう。例えば、「バイオテクノロジー分野においても、動物実験や遺伝子操作などの過程で用いられている。」「ある種のジャンクフードにも大量に含まれ、パッケージしたものを飲用に販売している業者さえある。」という記述は、昨今の遺伝子組み換え食品の影響に対する危惧や、食品会社の不祥事、輸入食品への信用の著しい低下を思い起こさせる。また、旧ソビエトでのチェルノブイリ原発事故や国内での原発事故はDHMOが原因であるとする記述も、存在意義や安全性が問われている原発の問題や、暴走する化学の力への恐怖を呼び起こす。「沖縄や横浜の米軍基地、原子力空母にも大量に備蓄されていることが確認されているが、国会で問題になったことは一度もない。」という記述は、議論が高まっている米軍基地の問題、ひいては国会や政治への不信へと繋がっていき、読む人を感情的にした後でDHMOの規制に同意させるのである。その他にも、「各種の天災を引き起こす」など、恐怖感を煽る記述があらゆるところに見られる。
このように、人々の恐怖感や現状に対する不満を煽って感情的にさせ、果ては「DHMOの規制」という政治的行動に乗り出すに至らしめる(もちろん、DHMOがジョークである以上これは有り得ないことであるが)、そのための仕掛けが散りばめられており、これは歴史の中で行われてきたプロパガンダによる洗脳活動と似通ったところが認められると言えるだろう。
また、DHMOに関しては、人々が「化学の力の得体の知れなさ」を感じていることが、この聞き慣れない物質への恐怖感を高めていると言えるかもしれない。約200年前にさかのぼる近代化学の幕開け以来、化学とは今まで人類が成し得なかったこと、夢見ていたことを現実にするものという明るいイメージが大方を占めていた。しかし、20世紀に入ってからは、戦争での化学の力が悪用や、人間の無知や驕り高ぶった姿勢など、人類は自らの行動によって化学の報復を受けていると言っても過言ではないだろう。ゆえに、人々の多くは化学の計り知れない力に対して無意識的に恐怖感や不信感を持つようになってしまったのかもしれない。しかし、化学を発展させ、その恩恵にあずかっている人間の責任として、その力をコントロールすることが求められる。化学そのものや、自然をコントロールするということではない。化学の力を悪用したり、人間の利益のみを追求したりすることのないよう、人間が化学の力を使用することを自分たち自身でコントロールすることを指している。14歳の少年が思いついた「ジョーク」であると同時に「プロパガンダ」であるDHMOは、情報過多な現代で安易に情報を信じることの危険性と、化学への姿勢を見直す必要性を説いていると言えるだろう。
参考にしたウェブページ
DHMO-wikipedia〈http://ja.wikipedia.org/wiki/DHMO〉
K. SATOH’s official web site〈http://www1.accsnet.ne.jp/~kentaro/index.html〉