DHMOとは何か??
ネイサン・ゾナー君の主張したDHMOの危険性、そしてこの物質の使用規制を求めての署名の記事を読み、初め、DHMOとは環境ホルモンの一種なのではないか、と感じた。何故ならば、DHMOの危険性の中で「7.大量に摂取すると痙攣、意識障害等の中毒症状を起こし、最悪の場合死に至る。10.不妊男性の精液や、死亡した胎児の羊水、癌細胞から大量に検出される。13.農業散布にも使われ、汚染は洗浄後も残る。15.工業的に溶媒や冷却材などとしてコンビナートや原子力施設で大量に使用され、そのほとんどは河川に投棄されている。」と挙げられていたからである。これらのことから、DHMOとは、工業製品等を作るときに発生する環境ホルモンの一種で、無色・無味・無臭であるが故に人々はその存在に気づくことがなく生活しているのではないか、と考えた。そして、そのような環境ホルモンが存在しているのであれば規制すべきであり、私は規制賛成の署名に応じるだろうと考えた。
ただ、何度もDHMOの性質について読んでいると、1、DHMOは無色、無臭、無味、かつ4、DHMOの分解には大量のエネルギーが必要で、分解後には大量の水素ガスが発生する、などの性質を知り、もしかしたら、この物質は水のことを表しているのではないだろうか?という考えも生まれた。しかし、水の特徴よりも、DHMOと言う物質の持つ固有の危険性のほうが、この文章の中で強調されている為、DHMOとは水のことであると断言することは出来なかった。
そのような前提のうえで、ではDHMOとは何なのか、調べてみることにした。ウィキペディアによると、DHMOとはDihydrogen Monoxide(日本語で一酸化二炭素)の事をあらわし、つまりこれは、水H2Oを難解な言葉で呼称したものである。ネイサン・ゾナー君はこのDHMOという呼称を「人間はいかにだまされやすいか」という研究手法の一つに用い、実際DHMOの使用規制を求めたところ、50人中43人がこの規制に賛成したと言うことだ。彼の主張するDHMOの危険性においては、水に関する事実に反することは何一つ主張していないにも関わらず、その危険性、有毒性について強調をすることでDHMOは水である、という考えを読み手から排除することに成功している。
DHMOの謎が打ち上げられた時、私が感じたことを述べようと思う。まず、私は、「何故ネイサン・ゾナー君は、このDHMOという物質の危険性を主張し、人々をだますことに成功したのだろうか?」ということを考えた。それは、主に二つの理由が挙げられる。一つは、普通の人々は化学に関する知識にあまり慣れ親しんでおらず、聞きなれない化学式を聞くと、異質なものとしてとらえてしまうこと、そしてもう一つは、水が私達の日常生活にごくありふれたものであるからこそ、この危険性を主張することが出来たこと、である。
まず考えたのは、普通の人々は聞きなれない化学式を聞くと、異質なものとしてとらえてしまうということだ。これは、私の主観的な意見になってしまうと思うのだが、理科系の学問に慣れ親しんでいない人は(私を含め)、聞いたことのない化学式を聞くと、知らない化学式=未知のものととらえ、もしその危険性、有毒性を主張されたならば、疑うことなくそれは有毒物質である、ととらえてしまうと言うことだ。化学に関する知識を持っている人であれば、DHMOという単語を聞いたときに、何なのか疑問におもって調べるかもしれない。しかし、化学について慣れ親しんでいない人々にとっては、未知の化学式は異質な未知の物体である、と当然のように思い込んでしまうのではないか。だからこそ、ネイサン・ゾナー君は、人々をだまして、DHMOの規制の賛成を得ることに成功したのであろう、と考えた。
第二に、何故ネイサン君はこれほどまでに水の危険性を述べることが出来たのか、について考えてみた。それは、水が私達の日常生活にごくありふれたものであるからこそ可能だったと言える。「様々な工業製品の製造過程に用いられ、そのほとんどは河川に廃棄されている」「ある種のジャンクフードにも大量に含まれ、パッケージしたものを飲用に販売している業者さえある」という主張も、実はこれは水が私達の生活にありふれたものであるからこそ可能である主張だと言える。様々な人体に有害なケース、例えば農薬散布による汚染、酸性雨の主成分であること、と述べることが出来るのも、水が常に人々の生活の中に存在し、そのような人体に有害なケースにも常に存在しているからである。工業用品を製造する過程、農薬の中、癌細胞の中、姿形は様々であるが、水はいつも私達の身近に存在している。ゆえにネイサン君は人々をだますための「DHMOの危険性」を主張することが出来たのではないか、と感じた。また、人々も、これだけ多くの場所、ケースでDHMOの危険性が問われているならば、ということで規制に賛成したのだと感じる。
最後に、この文章を読んで私が感じた「水の恐さ」について述べようと思う。ウィキペディアを見て、DHMOは水H2O、だと言うことが分かった後に、この「DHMOの危険性」を読み返してみると、水は「恐い」ものなのではないか、と感じた。もちろん、水そのものは無色・無味・無臭であり、人体に取り入れても何の害もない。劇薬と言うわけでもない。しかし、私達は普段気付かずに生活しているが、水は時に姿を変え、危険なものとなりうるのではないだろうか。例えば、洪水・津波・豪雪。これらの天災は、水が姿を変えて起きたものだ。また、DHMOの危険性のなかで述べられていたように「重度の熱傷の原因であり、固体の状態のDHMOが長時間人体に触れていると体組織障害を起こす(凍傷)」「気体状態でも危険な性質を持ち、人体に触れると糜爛性の障害を受けることがある。(火傷)」など、水は人体に危険なものにもなる。水は「ありふれたもの、無色・無味・無臭で私達の生活に欠かせない存在」である反面、時に私達の生活を脅かすような存在ともなりうる。水は「無害」では決してない。ネイサン君の記事を読み、水の「恐さ」を実感した。もちろん、彼は誇張した表現を使い、人々の賛同を得ることに成功したのだが、誇張表現を抜きにしても、水の性質一つ一つを取り上げると、その「恐さ」を感じた。
私達は日々水に慣れ親しんで、毎日の生活に利用している。身体の半分以上も水で構成されている。しかしだからといって水は私達に「親しい」わけではない。時に自然の中で、日常生活で、姿を変えて「危険なもの」になり得るのだ。ネイサン君の記事を読んでそのことに気付いた。そして、その「恐さ」を知った上で、水に慣れ親しんで行こうと感じた。川遊び、海で泳ぐ、雪遊び、どれもとても楽しい。しかし水に親しんでいる時も、水は時に恐いものとなりうる事を常に忘れてはいけないな、と感じた。
(参考)http://ja.wikipedia.org/wiki/DHMO