神を畏れることは科学のはじめ

--- 自然と向き合う基本姿勢 ---

                              吉野 輝雄

「主(神)を恐(畏)れることは知識のはじめである。」箴言 1:7

 

*クラスの最初で引用したこの聖書個所の私的解釈を試みながら自然科学と信仰について私見を述べてみたい。

口語訳聖書では、「主を恐れる」となっているが、「神を畏れる」と言い換えても元の意味から外れないと考えられる(むしろ真意に近くなる)ので、こ こでは「神を畏れる」とする。

 

1. 神を畏れるとは、人知を超えた偉大な存在(人間の知識、知恵力の及ばない存在)を認めることである。

 

2. 神を畏れるとは、自分(人間)が今存在し生きているのは自分(人間)の力だけに依らないことを認めることである。

 生命(肉体と精神)の源と多様な生命体を支えているしくみの不思議さ(正に神秘)を、驚きと畏敬の思いをもって受けとめることである。

 

3. 神を畏れるとは、自分(人間)が宇宙(世界)の中心にいるのではないという事実を認めることである。

 これは、位置的に天文学が教える真理であるが、宇宙・万物との関係において人間が中心に位置していると考えるのは畏れを知らないことだ。

しかしながら、人間は宇宙の中心から遠く離れた所にポツリと放置されているのではなく、同じく中心にいるわけではない存在(隣人、地球上の動植物) との生きた関わりの中に置かれている存在である。そのことを認め、現実との関わりを深め、豊かにし、広くするために生きていく存在であることを自覚するこ とが神を畏れる者の生き方である。

自分(人間)はもともと関わりの中に生きるべき存在としてこの宇宙(世界)におかれている。死とは関わりが絶たれた状態である。孤独感に悩まされる ことがあっても実際に孤立しては存在できないのが人間である。むしろ孤立状態から脱し、関係を築く方向に向かって生きようとすることが人間的なのだ。

一方、自分(人間)のみを肥やし権力を増強することだけに熱中して、あたかも宇宙(世界)の中心に自分(人間)が立っているかのような錯覚に陥る人 間は神への畏れを知らない存在だ。人間は、人という文字が示すように物質的にも精神的にも互いに支えられ生かされながら生きるものだからだ。

 

4. 神は、はじめから宇宙の中心におられ、今も、そして終わりの時まで宇宙の隅々までを見つめ、全ての存在と関わりを持ち続けておられる存在だ。 神は、宇宙創世以来150億年間、地球誕生以来45億年の時の流れを超え、また、1000個以上の銀河系宇宙の中にある1000億個を越える恒星の一つで ある大陽の子どもである星・地球上に生きる60億人の一人である自分とも関わりをもっておられる。という認識はもはや自然科学ではなく神の存在を信じる信 仰である。

 

信仰は理知(理性/自然科学の考え方)と矛盾しない。むしろ信仰は理知を支えるものである。なぜならば、理知活動をする人間は理知をもった存在とし て神により造られたものだからだ。自然科学は神が造られた宇宙(万物)の本質を理知によって追究する人間の営みであって、自然科学の成果である法則は、自 然科学の基本的性格からしてすべて相対的真理である。従って、神の存在を否定する根拠が自然科学から出てくることはあり得ない。

然り、神を畏れることは自然科学のはじめである。

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