選択課題 1

 

匿名希望

 

              「水の世紀」に必要な認識・行動とは

 

水の世紀

 

 

20世紀に起きた戦争が「石油をめぐる戦争」と言われるように、21世紀は「水」をめぐって戦争が起きるのではないか、という事がよく言われる。石油は20世紀を通して主要なエネルギーであり、経済発展を目指す国々には必要不可欠なものであった。石油利権をめぐっての戦争の例は挙げたらきりがないだろう。その石油にかわって今世紀は「水」が紛争の火種になるというのだ。水は地球誕生以来、その絶対的な量は変わらない。だが近年急速に増加した人口が、一人当たりの水供給量を減らしている。この事は、一年を通して水に恵まれている日本人には実感することは難しいが、一年の総降水量が日本の何十分の一の国の人々においてはまさに死活問題なのである。事実、国連や多くの国際機関などによって開催される「世界水ビジョン」の報告によれば、2025年には世界人口の4割が深刻な水不足に直面するというのだ。そして今現在も、安全な飲み水を手に入れることが困難で、また汚染された水を飲んでしまい伝染病にかかって死亡している人の数は年間400万人にも及ぶという。

 

「水」問題はなにも人口増加だけによって起こるものではない。水は農業用水としても大切である。豊富な食料は豊富な水からしか生まれない。しかしその水の利用法を誤れば、そのしっぺ返しは必ず人間に対して起こってしまう。その最も顕著な例はアラル海ではないだろうか。農業利水を目的とする水資源開発によって、かつて世界4位の湖だったアラル海は今や消滅の危機に瀕している。具体的には、1960年代まで最大深度が68メートルであったのが、90年代にはたったの17メートル。水際線は50メートルも後退し、塩分濃度は上昇。アラル海における漁業は壊滅したという。原因は、アラル海に注いでいるアムダリア川とシルダリア川が灌漑用水として枯渇してしまったことにある。草木がほとんどない大地に綿花や稲を植えた当時のソ連政府の強引なまでの農業政策は、川の枯渇どころかアラル海の死までも招き大きな環境破壊を引き起こした。現在ではその周辺に人はほとんど住んでいないという。このような事例は他にも多くあり、20世紀人類は、有限な水の利用方法を誤っていたというしかないだろう。

 

ここまでで、当然だが「水」は人間にとって無くてはならないものであり、現に多くの人々が命を落とし、一方でその大切な水を無駄にしてしまっているのがわかった。さらなる人口増加や環境の悪化が予想される21世紀、ますます「水」の大切さが叫ばれることだろう。21世紀が「水の世紀」と言われる所以である。

 

 

我々人間は何をすべきなのか

 

 こうした水をめぐる危機的な現状を前に、我々人間は何が出来るのだろうか。特に我々日本人は何が出来るのだろうか。200522日付けの朝日新聞に、日本人の水に対する意識を表すような興味深い記事が載っていた。タイトルは『売れる水、1500億円市場に 出荷量10年で3倍』。要するにミネラルウォーターが非常によく売れているというのである。記事によれば、ミネラルウォーターは現在、健康飲料水として飲まれていることが多くまたそのニーズも高いと言う。たとえば、サントリーが今年の322日から発売する「水々しあ」は、厚生労働省認可の「特定保健用食品」として血糖値に注目したミネラルウォーターである。500ml170円と高いのだが、既に各方面から問い合わせがあると言う。健康志向の高まりによるこうしたミネラルウォーターの出荷量の増加は当然経済に力を与えるだろう。

 

しかし、この現象は環境には悪影響を与えてしまうのではないかと考えてしまう。一つには、ミネラルウォーターを入れるためのペットボトルの事が懸念される。いくらリサイクル気運が盛り上がってきたとはいえ、再利用率は100パーセントには程遠いのが現状である。石油が原材料だが、透明な容器になるまでの過程では工場で大量の水が消費されている。「水を入れるための容器を製造するために大量の水が消費される」というジレンマが、今日本では起きている。二つ目としては、水を運ぶために多大な輸送費、もっと簡単に言えば石油(ガソリン)がかかっていることが指摘できる。ハウス食品が販売している「六甲のおいしい水」は、今年に入ってから採用地でそのまま製品化するようにしているらしいが、去年までは水を奈良工場へタンクローリーで運んで製品化していた。キリングループが輸入する「ボルヴィック」などは去年に比べ14パーセント売り上げを伸ばしているが、それは全てフランスからの空輸によるものであるらしい。このように、我々日本人は水道から清潔な水が出るにもかかわらず、様々なエネルギーを浪費しながらもミネラルウォーターにこだわっているのである。そしてこのこだわりは、地球環境的に言えば悪影響を及ぼしている。

 

こうした、「水のおいしさ」を意識するあまり、「水の大切さ」を我々日本人は無視してきた。我々はまず「水」を意識することが必要なのではないか。だが蛇口をひねれば当たり前のように出てくる水を前に、その大切さは自分自身もなかなか実感できない。しかし我々日本人が唯一「水の大切さ」を感じられるときがある。それはたまにある、夏場の水不足である。給水制限がなされる時などは、各家庭は風呂場に水を溜める。そこで初めて普段当たり前に使っている水を意識するのだ。この原理からいえば、普段から各家庭に供給する水の量を制限することこそが、我々が水の大切さを常に感じられる事につながる。この提案は余りにも非現実的であるのかもしれないが、家庭が無理であるならば少なくとも学校においてそれは実施するべきであろう。学校と言う小さな社会の中では、給食と言う食料はクラス単位で量は決まっている。給食当番は毎回、一定の量のおかずを全員に行渡らせるために盛るさじ加減を考える。それと同様に、水に関しても同じ事を行うべきで、トイレは別として、飲料用水に関してはクラスで一定量を定めてはどうかと思う。一年を通してこれを実施するかどうかは別として、学校教育の場でわずかでも実践することは、将来の日本に生きる人々に「水」の大切さを意識されるには有効ではないか。そしてこれは、会社や家庭に少しでも浸透していくべきものだと思う。一提案ではあるが、多くの人が水の大切さを意識すればするほど、案は増え逆説的に水は大切にされるだろう。

 

 

「あらゆるものの起源である水」の意識

 

 今世紀が「水」の100年になることが確かな今、根本的には水はあらゆるものの起源であることを認識する必要があるのではないか。古代イオニアの哲学者タレースが語ったことを真似るつもりはないが、「見えない部分の水」を意識することが大切である。たとえば、我々が途上国から輸入する穀物には、それらが出荷されるまでに大量の水が投資されている。途上国は外貨を稼ぎことに躍起だが、彼らは外貨と引き換えに、大切な食料と水を我々に与えてくれているのだと言える。しかし皮肉なことに水不足や、そのことによって飢餓してしまう人々は、そうした途上国で頻繁にみられる。ある意味、我々は彼らの命の源を奪っているのかもしれない。先進国に住む我々は単純に穀物を輸入しているだけではないことを考えるべきである。「水の世紀」を生きる者としてそうしたことを意識して行動することが何よりも大切だ。行動とは、上述したようなミネラルウォーターを買うことを控えたり、あるいはペットボトル製品をなるべく買わないようにすることでもいいだろう。また欲望に左右された「こだわり」を捨てて、国産の食べ物を食べることでも良いのではないか。水は生き物全てに与えられるべきものであるべきだ。

 

 

 

参考文献・情報源

1.高橋裕 『地球の水が危ない』 岩波新書 2003

2.中西準子 『いのちの水』 読売科学選書26 1994

3.石橋多聞 『飲み水の危機』 東京大学出版会 1971

4.『朝日新聞』 2005.2.2. 朝刊

5.自治労公営企業局HP 「世界の水危機にどう対処するか」 2002.3 692

 http://www.jichiro.gr.jp/tsuushin/692/692_03.htm