選択課題 4

 

伊藤彩乃

 

 

 

配布された選択課題の問題を読んだ後の私の感想は、「DHMOってなんだ?」だった。なぜかというと、私にはこれが一体どのような特徴を持つ物質なのか全く予想が立たなかったからだ。

私はまずプリントに記してあるDHMOの危険性の2と3を読んで混乱した。2ではDHMOは水酸の一種と書いてあるが、3では酸とアルカリが中和して生じる副産物に含まれると書いてある。酸とアルカリが中和反応をしたときに生じる副産物は水と塩のはずである。でもDHMOは水酸の一種のはずである…。ではDHMOってなんだ?

 

次に、snopes.comのサイトを訪ねて見た。そこで私は、“For those who have become dependant, DHMO withdrawal means certain death. という文章と、プリントの5,6,7,12に書いてある内容を読んで、DHMOとは何かアルコールのような物ではないかと類推した。しかし、もし仮にそうだとすると、ここで11015が引っ掛かってくる。アルコールで無色は考えられるとしても、無味・無臭はイメージ出来ない。アルコールの一種が体内成分から多量に検出されるというのも聞いたことがない。ましてや工業がアルコールのような物を大量に河川に投棄するだろうか?いくらなんでもそんな非常識なことをしていたら、もっと昔から問題になっていたのではないだろうか…。ではアルコールじゃないとすれば、DHMOってなんだ?

このような「?」が大量に私の頭の中で列をなしていた。

 

ここで記しておきたいのが、私が初めにプリントを読んだあとにこのようにいくつかの疑問を持てたのは、私がこの問題を「自然化学」の問題として初めから受け取っていたからである、ということだ。もし仮に私がただ単にネイサン君の発表をダイオキシンなどと同じようなDHMOという化学物質の警告文としてとらえ、署名を求められていたら、私は確実にサインをしていただろう。それはきっと私に「これは危険物質の規制についての発表だ」という先入観があるからで、またその場の雰囲気や発表者の口調などの様々な要因で、しっかり事細かに考察せずにサインしてしまう可能性が高いと思われるからである。これは、私が「自然化学」の授業で課題のプリントを読んで疑問を持つことが出来た理由と全く同種の原因に起因している。このように、使用されている言葉・選別された情報・先入観・取り巻く環境など、プロパガンダとは人間の決断を容易に左右できてしまう物であると言える。これを踏まえると、現在世間で危険だと言われているものも、もしかしたら本当はそんなに有害なものではないのかもしれない、と類推できる。事実、ダイオキシンはまるでとても強力で有害な危険物質のような印象がある。確かにダイオキシンが危険な物質である事は事実だが、それよりも自動車などが排出する排気ガスのほうが遥かに人体にとって有害である。にもかかわらず、排気ガスはダイオキシンほどセンセーショナルにニュースに取り上げられたりはしないし、ダイオキシンのほうが危険なイメージが強い。このような例こそが、私達の日常生活の中で気付かないうちに実際に使われている、厳選された情報・言葉によるプロパガンダの一つだと言えるだろう。様々なメディアから放出されている情報に対して、私達は日頃から注意深く考慮していく必要がある。

 

DHMOの正体を知ったとき、私は愕然とした。何故ならば、私はDHMOという物質がどんな物なのか全く予想が立てられなかったにせよ、それは「悪い」ものだという単一のイメージがあったからである。しかしながら、愕然としたのと同時に私の中にあったいくつもの「?」が消えていったのも事実であった。実際、正体を知った上で改めてプリントを読み返してみると、それは全く納得のいく内容だった。確かによく見てみると、DHMOとは「dihydrogen monoxide」、つまり「水素2個、酸素1個」、水の事を示しているのに他ならない。「あぁこれは溺死のことか」、「これは凍傷で、こっちは気管支に水が入った時のことか」などと確認をしながら、さすが「人がどれだけ騙されやすいか」を調べた実験のことだけあるな、と感心させられた。人とは選別された言葉や情報などでこんなにも容易く騙されてしまうものなのか、とある意味拍子抜けした。私たち人間が一番身近に接している「水」の事だということも分からなくなるとは、まったく本当に感心する。

しかしここで別の方向から考えてみると、「水」の特殊さを痛感することができる。このプリントに書いてあることは、私達が常に身近に触れている「水」についての全くの事実である。確かにかなり意図の感じられる言葉遣いをしているが、でっち上げていることは一つもない。これはつまり、私達の周りにありふれている「水」がこれだけの多様性・多面性を持つことを意味しているのだ。このように受け取ると、私達が身近だと思っていた「水」が急に全く違う物のように感じてしまう。人間が水を利用してきたように見えて、実は水が私達人間を、それどころかこの地球をコントロールしているように思えてくる。「水」はきっと、私達人間が理解しているつもりでも、本当はまだまだ知らない面をいっぱい隠し持っているのだろう。ましてや「水」とは到底人間に理解できる代物ではないのかもしれない。人間はいつまで経っても水に生かされ、水に頼り、お世話になっていくのだろう。水という大きな存在に包まれて地球が存在している、という関係が一番理想的で安定なのではないだろうか。そう思ったのだ。

 

懸念すべき点は、私達は水にお世話になっている事に気付いていない事が多々あることだ。その所為か、人間はお世話になっているにも関わらず、水に対して随分酷い仕打ちをしてきたように思える。お世話になっているならいるで、私達にはとるべき態度があるはずだ。ネイサン君が記したように、人間は皆「水中毒者」で、水を失うことはすなわち人間にとっての死を意味する。実際、人間は体の20%の水分を失うと死に至り、それはたったの約23日で訪れる。つまり、地球上の人類皆が「中毒者」なのだ。それ故に、人間は多くを水に恵んでもらっている。その恵みは生命の維持だけに留まらず、私達の生活も、便利さも、喜びも、本当に多くのものを支えてくれているのだ。だからこそ、人間には水に対して出来る限りの感謝の気持ちを示す必要がある。水と人間はGive & Takeの関係を築く必要があるのだと私は思う。その中で、今まで人間はただひたすらGiveだけを受けてきたのだから、それだけのお返しをすべきではないだろうか。「水」という存在の偉大さとありがたみをしっかりと踏まえ、私達はこれからの未来を歩んでゆく必要がある。