水の氷結晶にも雪の結晶のように様々なうつくしい形があることをご存知だろうか?
このことを知っただけでも水に対して、ありふれた物質だとは思えなくなるはずである。
私たちが自然の中で湧き出る清水の清らかさに胸を打たれる想いをするのにたいして、普段生活している中で水道の蛇口をひねり水を出し必要に応じて使うそのときはなにも感動はしないし特に何も考えず自分の用事を済ましている。化学記号は同じである。同じ水であるのに何故こんなにも私たちは感動を覚えたり、無関心であったりするのだろうか。確かに清水は透明感もあり輝くような美しさがある。水道水は塩素処理をしているせいか透明ではあるけれどくすんでいるような感じもし、またもちろんかがやきなどありはしない。簡単な実験をしてみよう。晴れた日にグラスに水道水とミネラルウォターを入れてそれぞれのグラスを眺めてみる。思い過ごしではなく明らかに水道水の方が輝きがない。なぜだろうと考えているところ一冊の写真集を見てなぞが解けるような思いがした。その写真集は水の氷結晶を写した物であった。雪に結晶があることは知っていた。六角形をベースとした様々な形がある。水にも様々な形の氷結晶があり、それは条件によっていろいろ変化する。これがじつに美しいものである。またおもしろいことに私たちが目で見ても美しいと感じるような清水の水の結晶はやはり美しく、水道水の水の結晶は形が崩れ形をなさないものまである。これをみて、なぜ自然の水が輝いて見えるのかということが理解できた。このように美しい結晶になる水であるなら液体状である時も輝かないわけはないと思えたからであり、また同時に水道水がくすんで見えるのも納得ができた。
また「水は語る」の著者江本勝氏によると、水には波動を読む力があるという。字を読んだり音楽を聴いてそれを記憶し、結晶の形を変えるということである。波動とかの話は私の理解の範囲を超えるところであるが、とにかく水は周りの環境に応じる性質があるらしい。そして、さらにその記憶したことを伝播する性質もあることを氏は著作の中で著述している。このことを考えると水を見て何かを思い出す、というようなあらゆる人にとって水が原風景となるということも理解できる。水に関する著作を集めた日本の名随筆水の巻の中で画家の東山魁夷氏は「川のほとりにて」という作品のなかでこのように述べている。
この全く平凡な風景の中になにがあるのか。数日を経ても、以外に私の心に、その情景が根深く、静かな映像となって息づいているのを感じる。私の心を誘うように、深いところから呼んでいるものがある。私はあの川の堤に腰をおろして、ぼんやり眺めていた時のことを思い出した。流れの音がささやきかけて、古い記憶を呼びさまそうとしているかのように 親しく、生き生きとしていて、それでいて聞いているうちに眠くなるような、安らかで、ものいう響き。
さすがに画家というか水の流れでこれだけのことを感じられる感性はさすがであるが、少なくとも、的確には表現できなくとも似たような経験をした人は多いと思われる。なにかしら水の情報伝播によって私たちも体内に70%も水をたくわえている水の仲間として反応した結果とも考えられる。実際東山氏も古い記憶を呼びさまそうと・・・と書いており、彼は水によって自らの記憶が呼びさまされている。また、実体験からすると美しい清流に出会うと頭が美しいと判断しているというよりも、長い間離れ離れになっていた最も近い近親者にあったような喜びが体の中を駆け巡る。このことも、水によって私の体中の水が反応したということであろう。また、東山氏はこの全く平凡な、と水のある風景をありふれとものとしている。あまりに近くにありすぎてとくにその存在に意識を向けることがなかったが、一度意識を向けたとたん、その不思議さに心打たれたということである。近くにあるがふと意識を向けてみると深い瞑想の森に迷い込むよう自分の奥ふかくまで水というものが染み込むような心持になる。自らが水の中に包みこまれ、その中に深く落ちてゆくような感じになる。水による私たちが反応して起きる不思議さを書いている。
たしかに水はありふれているが、化学記号が同じでも例えば同じ人間という種族であっても人々にいろいろな性格、タイプがあるように水もあらゆる条件によって結晶として取り出した時にはさまざまな形であらわれる。生命の神秘とは水の神秘と同じである。水にそのような感想をもてないということは、生命に対してもあまりポジティブに考えられないということではないか。自分が生命体の一つであるということ、この世の中は生命体の連なりであること、その連結をおこなっているのが水であることに少しでも気がつけば水がありふれたものなどと言えないはずである。
参考文献