ここは、都内のとある家の一室。高校生の女の子と、その家庭教師と思われる女子大生が、今度のテストに向けた勉強をひと段落させ、一息入れようとしていた。
「よしっ、とりあえずここまでね。ちょっと休憩しよう。」
家庭教師は、さっきコンビニで買ってきたミネラルウォーターのペットボトルを、かばんからごそごそと取り出した。
「ゴクゴクゴク・・・。ぷはぁ!」
豪快にのどを鳴らしながらおいしそうに水を飲んだ家庭教師は、満足げにボトルのふたを閉めた。そして、ふと生徒のほうに目を向けると、こう唐突に聞いた。
「ねえ、水ってどう思う?」
水?どう思うか?そんなこと考えたこともなかった。生徒はこの突然の質問に戸惑った。が、なんとなく心に浮かんだイメージをとりあえず挙げてみることにした。
「ふんふん、なるほどね。」
家庭教師は興味深げに生徒の意見を聞いていた。
「それじゃあ、水は無味、無臭、無色透明で、物理・化学的に特に注目すべき特徴もない。しかも、この地球上のどこにでもある最もありふれた物質だ、っていうのね。」
生徒はコクンと頷いた。
「うん、じゃあ、ちょっと、水について考えてみない?」
家庭教師は、机の上においてあるミネラルウォーターのペットボトルを指でコツっとはじいて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「水って味がなくて、においもなくて、色もついてないものだって、さっき言ってたよね。ほんとにそうだと思う?」
そう言って家庭教師は再びペットボトルから水を飲んだ。
「ぷはっ。うん、おいしい。水道水も、このミネラルウォーターも、『水』にはかわりないよね?でも、こっちのほうが『おいしい』。何でだと思う?
確かに、水は本来、無味、無臭、無色透明なんだけど、そういう純度の高い純粋な水は純水っていって(シャレみたい、と生徒は思った)、私たちのまわりにはほとんど存在しないの。水は、いろんなものを溶かし込む力が大きくて、私たちのまわりにある水は、大抵、水溶液なんだよ。」
生徒は、じっと家庭教師が手にしているボトルの中身を見つめた。これも、「水溶液」なのか・・・。
「水道の水と、ミネラルウォーターは、基本は同じ「水」でも、それぞれ溶かし込んでいるものが違う。だから味やにおいが違ってくるのね。水道の水ですら、場所によって特有のにおいがあって、わかる人には、これはどこの水道局の水だ、ってわかっちゃうんだって。」
すごい人がいるもんだなあ、と生徒は思った。私が犬だったら、私にもわかるかな?生徒は、小さな、茶色い毛並みの犬になって、水をくんくん嗅いでいる自分を想像して、少し愉快な気分になった。
家庭教師は続けた。
「この水の大きな溶解力っていう性質は、私たちとも深い関係があるんだよ。私たちの血液や、汗も水溶液。水、ここでいう血液や汗は、栄養を体中に循環させたり、老廃物などを溶かして運んで対外に排出したりして、体のバランスを保っているわけ。」
生徒は自分の手首を見つめた。幾筋かの血管が見える。この中をとおっている血液も「水溶液」か・・・。
「いま、ああ、自分の血もよく考えたら水溶液なんだなあ、とか思った?」
家庭教師は、生徒の顔をのぞき込んで言った。・・・スルドイ。
「溶解力のほかにもね、いろんな水の特性によって私たちは生かされているんだよ。蒸発熱が大きいとか。たとえば、さっきも言った「汗」。暑くなると、私たちは汗をかくよね。で、その汗は蒸発していく。そのとき、汗は多くの熱を奪っていく。それで私たちの体温があがりすぎるのを防いでいるの。よくできてるよねぇ、体と水の関係って。」
「ねえ、宇宙から見た地球の姿って見たことある?」
遠い目で天井を見つめたまま、家庭教師は言った。
生徒は、テレビなどで何度か見た地球の姿を思い出した。青くて、きれいだった。
「地球は約7割を海に覆われている、まさに水の惑星。確かに、水は世界中どこにでもあるように思えるよね。
でもね、水がありふれたものだって言えるのは、私たちが、それだけ恵まれた環境にいるっていうことなんだよ。水がほしいとき、私たちはどうする?」
水道の蛇口をひねる、と生徒は答えた。
「うん、そうだね。蛇口をひねれば、水はいつでも出てくるよね。水道代をちゃんと払っていればの話だけど。そう、私たちは水道代を払って水を「買って」いるわけだけど、普段はそんなに気にしてないよね。家でも、学校でも、公園でも、デパートでも、どこでも蛇口をひねれば、水が流れ出てくる。しかも、それを飲むことだってできる。これって結構珍しいことなんだよ。」
珍しい、ということが生徒にはピンとこなかった。
「どこか外国に行ったことある?」
生徒は、ううん、と答えた。
「私ね、ある発展途上国に行ったとき、水事情が日本とあんまり違うもんだから、すごくショックを受けたの。水道をひねってもね、水が出てこないの。温かいお湯も出てこないし、もちろん、飲めない。少し待って、水を使って、また待つ。その繰り返し。温かいお湯で、シャワーをがんがん浴びるなんてことできなかった。そのとき初めて、日本の水の豊かさ、水を十分に使えるっていうことの贅沢さに気づいたの。」
家庭教師はミネラルウォーターのボトルを、大切なものを扱うようにして両手で包み込んだ。
「そういう開発途上国を中心とする世界各地ではね、水不足だけじゃなくて、水質汚染、洪水被害の増大とかの水問題が発生してて、食糧難とか、伝染病の発生とかの問題とも結びついているの。
この原因としては、急激な人口増加や都市開発、産業発展なんかがあってね、水をめぐる国際紛争が各地で発生しているの。知ってた?『20世紀の戦争が石油をめぐって戦われたとすれば、21世の戦争は水をめぐって戦われるだろう』っていう警告をする人までいるんだよ。」
水をめぐって、争いがおこる・・・。生徒は、えもいわれぬ恐怖を感じた。
「人口の急増や、産業の著しい発展によって水需要はどんどん増えていて、いま、アジア、アフリカなど31カ国で、水の絶対的な不足が叫ばれているの。人口増加に伴って、2025年には水不足に悩む国は48カ国に増えるとされて、それとともに、食糧難などの問題も深刻化するだろうって言われてるんだよ・・・。」
家庭教師は、いつになく沈んだ声だった。きっと、自分が訪れた国のことを思い出しているのだろう。
「自然界における水の総量のうち、淡水はたったの2.5%。あとは大体、海水なのね。
その2.5%の水が平等に分配されているかっていったら、答えはNO。水は雨となって大地に降り注ぐけど、どこにでもまんべんなく降るわけじゃない。地形や、気候の違いから、水は、かなり不平等に分配されているって言ってもいい。たとえば、この日本と、アフリカの砂漠を比べてみれば、その違いがよくわかるでしょ?地形、気候だけじゃなく、降った水をうまく管理できるだけの社会的基盤があるかも関係してくる。水道設備とか、ダム とか。だから、さっきも言ったように、水不足が発展途上国を中心として起こっているの。
健康的な生活を手に入れ、食糧を生産するには、十分な量の水が必要とされる。でも、それを確保するだけの設備がないから、水が得られない。そうすると、人口は増えても、健康に育たない、食糧の生産が追いつかない、またの国の成長、つまり、それによってもたらされる人々の健全な生活がはばまれる。悪循環だよね・・・。」
いつもの先生じゃないみたい・・・。生徒は、さっきまでまでとはうって変わって、深刻な感じになった目の前の女子大生に視線を注いでいた。
「知ってる?先進国の間にも、水の消費量に大きな差があるんだよ。世界の経済大国アメリカでは、一日の一人あたりの水の消費量は6,320リットル。スイスでは、290リットル。もちろん、水不足に悩む地域の人たちはもっと少ない水しか手に入れられないわけだけど。どう?すごい差じゃない?毎日の生活にも事欠く程度の水しか手に入れられない人もいれば、何千リットルもの水を一日で使う人もいる。同じ地球に暮らしているのにね。」
でも、先生、ペットボトルに入った水は?それなら、地形や気候に関係なく、水があるところからないところに、安全な水を分配できるじゃない?と、生徒は言った。
「ペットボトルに入った水だって同じ。例えば、私はさっきコンビニでこの水を買ったけど、これだけじゃなくて、ほかにたくさんの種類の水があって、お金を出せば私はそれを好きなだけ買える。でも、お金がない人だったら?
買えないよね。水が買えるっていうのは便利なことかもしれない。でも、それは、買える余裕がある人にだけ言えることだと思わない?水が「商品」になってしまえば、当然「よく売れる」ところに商品は集まっていく。つまり、豊かな国々ってこと。しっかりとした設備をもち、もう十分な水を確保しているはずの国へ、さらに水が集まるっていうことが、何を意味しているか、わかる?」
水を本当に必要としている、貧しい国には、さらに水が集まりにくくなるってこと?
「そう、そのとおり。
人間は、体の約70%が水分。地球とそっくりだね。で、一日で必要な水の量は、だいたい一人2.5P。人間の体の水分のうち、約12%を失うと、人間は死んでしまうの。これは、人間なら誰にでも当てはまること。そして、十分な水が得られないっていうことは、そのまま命の問題にかかわるってこと。
「余った」水を、有効利用する手段としての水の商品化は、一見、理にかなったことのように思えるかもしれない。でも、それは、極論で言えば、人々の生きる権利を、お金で売り買いするっていうことにならない?
苦しいんです、死にそうです。水をください。
金はあるのか?
ありません。
じゃあ、仕方がない。水はやれない。
こわいよね。でも、ウォータービジネスの時代は、もう始まろうとしてる。
水って地球中を大循環しているものでしょ?海に漂って、蒸発して、雲になって、雨となって降り注いで、土や植物や動物に吸収されたり、そのまま川に流れたりして、また海に戻る。要するに、水は、人体で言ったら、血液にあたるわけね。だから、その血液の流れを無理に変えようとすると、きっと人体、つまり地球に害が出るんじゃないかと思うの。人間には「余っている」ように見える水でも、植物やほかの動物からみれば、とっても必要な水かもしれない。流れを変えてみて、はじめて、それが何の役に立っていたかに気づいても、もう遅いかもしれない。水は、すべての生態系をつないでる。それは、果てしなくおおきなネットワーク。短絡的な思考回路じゃ、この地球の大自然のメカニズムは読み解けないのかもしれないね。なんてったって、私たちも、このメカニズムの一部分なんだから。」
ここまで話して、家庭教師はちらりと時計を見た。
「あっ、もうこんな時間?!そろそろおいとましようかな。どう?水についての考えは変わった?」
生徒は、コクンと深く頷いた。
「まだまだ言いたいことはあったんだけど、水の問題は奥が深いから・・・。
じゃあ、あさってから始まるテストがんばってね。」
そういって、家庭教師は筆記用具とペットボトルをかばんに入れ、上着を着込み、生徒の家を後にした。
生徒は、なんだか自分の前に新しい世界が開けたような感じがした。水、みず、ミズ・・・。こんなに水について考えたのは初めてだった。そして、もっと考えてみたいと思った。なんで、ウォータービジネスの時代なんでものがやってきたんだろう?その原因は・・・?
そこまで考えて、生徒はふと、違う疑問につきあったった。
そういえば、先生、何で今日に限っていきなり水の話なんかはじめたんだろう・・・?
家庭教師は、力強く自転車のペダルをこぎながら、今日の、生徒との水についてのやりとりを思い出していた。
ふふふ、あの子のおかげで、「自然と化学的基礎」のレポート、どうにか書けそうだわ。あの子も、これを機会に水についていろいろ考えるようになってくれるといいんだけどな。
家庭教師は、満足げに鼻歌を歌いながら家路へと急いだ。
参考資料
- ・「世界の水問題」 『「川と水」委員会』 http://www.idi.or.jp/vision/indexj.htm
- ・「知恵集めて危機回避」 朝日新聞 2001年11月30日
- ・ 「各国の水消費量」 『森林と水資源』 (社)日本林業協会編
- ・ 2月5日配布の講義資料より (他、講義配布資料・授業内容も参考にしました。)