今日は、今学期ICUの吉野先生のクラスで<水>という物質について、その私たちの生活への意味について知ったことをお話したいと思います。私たちの生活に対する<水>の意味と言うと、みなさんは普段から喧しく論じられている環境問題のことをまずは思い浮かべるのではないでしょうか。工場からの廃棄される硫黄・窒素酸化物にくわえて、化学肥料や家庭からの生活排水が毎日大量に河川や海に流れ込まれ、生態系を破壊している。そして私たちの生体も食べ物や飲み水を通してその影響を受けている。また森林伐採によって土壌の保水・濾過機能が減退し、都市においては舗装された地面の上を滑るようにして様々な汚れが直接河川や海に流し込まれている。水道水も自然の水循環の一部であり、限りある水資源をもっと大切にしなくてはいけない。こうした事柄については、みなさんもすでにいろいろなところで聞いたことがあるでしょうし、なかには意識して普段から節水を心懸けているひともいるかもしれません。あるいは昨今、気象パターンの変化や人口の増加、農業・産業用水の需要の増大と排水による環境汚染、それらに伴う「おいしい水」の希少価値の貨幣への換算などの動向によって、多国籍企業が世界中できれいな淡水を何十年単位で買いあさっているというようなことも、普段からミネラル・ウォーターという形ですでに「水を買っている」みなさんの耳には、入っていることでしょう。
今日お話したいのは、こうしたいわば社会工学的な問題の背後にあって、私たちが普段考えたこともないような、<水>の物質としての不思議さ、特別さについてなのです。なるほど<水>は貴重だとは言っても、みなさんは<水>を私たちが生活していくために一定の機能を果たすべき様々な基本的資源の一つ、物質としては大した特徴もなく、普遍的に存在する当たり前の凡庸な物質というような印象をもってはいないでしょうか。ところが実は、<水>はただ単に私たちの生活に対する機能という面を越えたレベルで、その機能自体も支えるようないくつかの非常に変わった特徴をもった特別な物質なのです。みなさんも、あらゆる物質のあり方が極めて小さな原子や分子と言った粒子の運動エネルギー(動き)と分子間力(安定)とから構成されていることは知っていますよね。
水が気体であるときは、運動エネルギーが分子間力に勝っている状態、液体であるときは、分子間力も運動エネルギーも両方大きい場合、固体であるときは、分子間力が運動エネルギーに勝っている状態になっています。水の分子H2Oは一つの酸素原子が電子の共有結合によって二つの水素原子と結合したもので、ちょうど両腕を広げてダンベルを持つような具合に104,5度の結合角となっています。この104.5度という水分子の結合角からしてすでに大変珍しく、水素原子二つと別種の原子が結合する他の分子では、普通90度が最も安定する角度なのです。さてこれからお話しする水の様々な自然科学的特性の根本原因となっているのが、この水分子同士が結合するときに働く大きな分子間力です。H2Oは酸素原子がプラス、水素原子がマイナスの電荷を持っていて、分子のなかで電気的に偏りのある極性分子となっています。水分子と水分子の結合は、ある分子のHのアームが別な分子のOの基点と結合するのですが、このときこのHとOの電気的に反対の極性が双極子モメントによって強力な結合を造り出すのです。
このような分子間力の強さは物質としての水にどのような特性を造り出しているのでしょうか。まず水は大変温まりにくく冷めにくい物質です。化学的には、1gの水の温度を1C上げるのには大きなカロリーが必要である、すなわち比熱が大きいと言います。平たく言えば、水は温度変化をしにくいということで、このために地球上の気象変化が起こり、また地表に太陽が当たる日中と当たらない夜間の温度差が緩和されるのです。(砂漠における昼夜の大きな温度差を思い出して下さい。)また水は液体から気体に蒸発するときにも強い分子間力を振り切るために大量のエネルギーを奪います。沸点が高いということです。これは発汗による体温調節に役立ちます。固体状態においてはさらに大きな分子間力を持つので、水はまた融けにくく氷結しにくい物質でもあり(融解熱が高い)ます。そのため私たちの身体は寒さから守られています。
また強い分子間力の引き起こす水の興味深い大変重要な特性として、表面張力と、強い溶解能も見逃せません。液体表面の分子はその上方向で別の分子と結合していないために下の方により大きな力で引っ張られています。このため液滴はより小さな球形になろうとするのですが、これを表面張力と言います。この分子間力のために水が血管や植物の茎や幹を上昇する毛細管現象が可能となり、生体は隅々まで栄養を運搬することができるのです。また水はその強い分子間力で別な物質に吸着しこれを溶解します。どんな物質も水を永久に容れておくことはできないのです。このため自然界における水は、生体のなかでも海や川でも、何らかの別な物質を溶かし容れた水溶液として存在し、体液の役割を果たしたり反応触媒となったりします。海はその最たるもので、生命の誕生した原始の海はそれこそあらゆる物質が溶け込んだスープでした。
海洋植物の光合成によってシールドとしてのO3オゾン層が生じるまえの地球には、可視光線よりも波長の短い強烈な紫外線が容赦なく直接に注いでおり、光線をよく吸収する水分子の集まりである海があらゆる生命にとっての巨大な子宮のようなものだったのです。水のこうした性質のおかげで、私たちは適度な体温調節を行い栄養を運搬し代謝反応を行うことができるし、水が地球上の常温(15度くらい)で液体で存在するために、生命を育む大小さまざまな水たまりが生じるのです。ところで、地表を覆う水の面積比と人体を流れる水の比とがほぼ同じ6から7割くらいだということを知っていますか?人体はその水分を循環させるために一日に2,5リットルほどの水分を摂取しなければならず、約12%を失うと死亡してしまうし、老化の過程とは実は水分含有率の低下に他なりません。人体がこの水分を外部から日々取り入れて生きているわけですが、実は同じく約7割を占める地表上の水分の総量は45億年前から一定なのです。ソクラテスが仰いだ毒杯の水分も十字架上のキリストの口に含まされた葡萄酒もあなたが今朝飲んだオレンジジュースも、同じ地球上の水分子、どこかで繋がっているかもしれませんね。でも地球上にこれだけ豊富な水が存在することもまたとても特別な条件のもとではじめて可能なことです。
太陽系の7つの惑星のなかでこのようなかたちで水が存在するのは地球だけ、もしあとすこし太陽に近ければ金星のように蒸発してしまい、あとすこし遠ければ火星におけるように氷結してしまう。そして地球があとすこし小さければ、月におけるように水は重力圏に留まってはくれないでしょうから、この変わった物質が莫大な宇宙空間のなかで地球にだけ衛星写真に見られるような美しい生命の色あいを与えてくれている不思議さがわかりますよね。
でも、海が生命の母胎となるためには水のもう一つの化学的条件が欠かせないのです。一般に、物質は温度が高くなり運動エネルギーが上がるほど分子間力が凌駕されて密度が小さくなり(単位体積あたりの重量が軽くなり)、逆に温度が低くなり運動エネルギーが落ちるほど分子間力が勝って密度が大きく(単位体積あたりの重量が重くなり)ますが、そう考えてみると巨大な氷山が海面に浮いているのは不思議ではありませんか?実は水という物質は、大気の温度が低下するにつれて表面の水が冷やされて下に沈み、暖かい水が表面の浮上して冷やされるという運動を摂氏4度までつづけ、摂氏4度で比重が最大となり、それ以降はなんと逆に密度が大きくなって(比重が低下して)いくのです。この極めて珍しい性質がなければ、寒い地方や季節において水は下から凍っていくでしょうから、たとえばアザラシが氷の下から顔を出すという光景もなくなってしまうでしょうし、海底に沈んだ氷は太陽光によって再び解かされることもなく、水は生命の母胎どころか無機物質に満たされた生命の墓場ということになりかねません。
以上のお話ししてきたように、水の自然科学(化学)は、私たちの社会的な思惑を越えたいわば自然の恩寵としての水という物質の数々の奇跡的な特性を教えてくれています。水は私たちの社会や生活に対する機能的意味から考察されるべきではなく、むしろそのような機能的意味を支える、45億年も続いてきた生命の母胎としての奇跡的物質の営みの観点から理解されるべきだと思います。
ここまで水という物質の化学的特性をお話してきましたが、これからもうひとつ別な視点を紹介したいと思います。
水はその化学的特性によって生命の万象を可能にしてきたばかりではなく、あらゆる時代あらゆる地域における人間の芸術的創造力の源=source of inspirationとなってきました。水の芸術というと、みなさんは北海道の雪祭りにおける氷の彫刻のように水を直接素材にした作品、また、モネとかターナーの絵画、山水画のように、水の魅惑的な視覚的映像を捉えた作品などを思い浮かべるかもしれません。ここで紹介したいのは、造形芸術においてほとんど無意識に表れた水の姿と、音楽そのものとなった水のきらめきです。まず造形芸術のほうから話すと、吉野先生のクラスで見たVTRに、カルマン渦の話しがでてきました。カルマン渦とは、水の一定した流れが互いに交錯したり何らかの障害に当たったりしたとき、混乱した水流がつくる独特の紋様で、カオスと秩序とのあわいに生じる、いわば生命の起源的瞬間の紋様であると言えるでしょう。このカルマン渦の紋様は、ギリシャ、エジプト、メソポタミア、中国、インドなどの古代文明圏における壁画、宮殿彫刻、器などに普遍的に見られることで有名です。特徴的なのは、カルマン渦はべつに水そのものを題材とした作品にのみ刻まれているのではなく、抽象的な紋様として広く用いられているということです。大河川の周囲に発展し水から様々な力を引き出していた古代文明圏のひとびとは、自らの文明の起源や営みの根底に思いをいたしつつ、無意識のうちにカルマン渦を刻み描いていたのでしょう。この紋様は縄文土器にも見られるように、今日知られているほとんどあらゆる時代にその跡を残しているのですが、今日みなさんに見て欲しいのは現代の芸術におけるカルマン渦の姿です。
〜作品を見てもらう(レポート添付資料)〜
この「生命の木」Lebensbaumと題された絵を描いた作者はグスタフ・クリムトGustav Klimt(1862−1918)、ヴァーグナーやシェーンベルグ、フロイトの活躍した世紀末ベルエポック期のウィーンにおいてJugendstilの分離派Sezessionに君臨した偉大な画家です。彼はとくに肖像画において人物をほとんど写真的な正確さで捉える写実力をもち、アングル流の古典派から印象主義的な点描、キュビズムやフォービズムといった世紀末から20世紀初頭に至る、ほとんどあらゆる絵画技術を身に付けた技術的に完璧なマイスターでした。しかしクリムトの芸術の顕著な特徴はその独特の思想性で、彼は自らの没落を予感しつつ生の享楽に狂奔する爛熟期の西欧文明の首都で、死の陰と隣あわせの人間の生の官能的なまでの美しさと生命の営みの万華鏡的な様相を、古代から現代までのあらゆる絵画技術の綜合によって生み出される装飾と幻覚に満ちた画面に創造したのです。彼は生命の根源、きらめき、その循環を主題としていたとも言えるでしょうが、この「生命の木」だけではなく、ほかにも非常に多くのクリムトの作品において、いろいろなところでカルマン渦の紋様が用いられています。画集のなかに<水>を捜してみると面白いでしょう。クリムトは生命を生み出すエロチックな女性の姿態と<水>の主題を何度も描いていますが、紋様という形で無意識に<水>があらわれているということは、諸文明を貫く生命の根源としての<水>の流れと力とに到達する芸術家の感性の触手を感じさせるとは言えないでしょうか。
つぎの二つはストックレーというベルギーの実業家の邸宅の壁面に描かれた、ストックレーフリーズDer Stocletfriesと呼ばれる一連の作品で、原始生命の揺籃としての水泡のような模様や、核酸の配列のような模様とならんで、カルマン渦らしき紋様がみられます。(このタペストリーに描かれた紋様はすべて他の作品にも見られます。)並んだふたつは、「期待」Die Erwartung「成就」Die Erfuellungという作品です。見てもらえればわかるように、極めて美しい至宝のような作品のなかで、水の描く不思議な紋様が決定的な芸術的効果を生んでいます。クリムトは古代エジプトや、ギリシャのクレタ・ミケーネ文明の出土品をも見ていたのでしょう。自然界にあるさまざまな物質のなかで、あらゆる時代あらゆる文明において、これほど多くの芸術家を捉えた紋様を生み出すのは<水>だけではないでしょうか。<水>は化学的にだけではなく、人間の芸術的感性による創造においても、極めて特別な存在であることがわかってもらえるのではないでしょうか。
では最後に、<水>の音楽を聴いてもらいましょう。これはクリムトとほぼ同時代に生きたフランスのモーリス・ラヴェルMaurice Ravelの「水の戯れ」Jeux d'Eauという作品です。一緒に、楽譜の一部も(模様のような音符の美しい配列を)見て下さい。
〜〜楽譜を見ながら音楽を聴いてもらう(レポート添付カセット)〜〜
音楽についての解説は必要ないでしょう。この楽譜もまた、滴り落ち、互いに流れ込み、岩間を疾け、からみ合いながら緩やかにたゆたい、氷結して煌めき、呼応し合う不断のリズムにのってさまざまな姿態に変化しながら、生命の豊かな階調を生み出す透明なトーンを、ある種の記号的な絵画作品のように表しているとは思いませんか?ラヴェルは「水の戯れ」という主題を設定し、<水>という物質の姿だけからこれだけの豊かな和声と美しいテンポとを創造したのです。<水>そのものにこのような美しい音楽が流れていると言ったら言いすぎでしょうか。これまで見てきたその極めて特殊な化学的特性、造形芸術における表れと合わせて考えるとき、これだけの芸術の源=source of inspirationとなりうる<水>が凡庸な物質などではありえないことは明白でしょう。このような<水>の紹介をへて、冒頭の環境問題や<水>の私たちにとっての機能的意味の観点に立ち返るとき、つぎのような切実な問いに辿り着くのではないでしょうか。
時経軸の比から見ていわば大晦日にやっと現れた新参者でありながら、45億年にもわたるこの不思議な生命の揺り籠<水>の運動を阻害しまっている私たちは何者だろうか?生活排水や産業廃棄物によって私たちが<水>を汚してしまっているのは、クリムトの作品をはじめとするさまざまな造形芸術に表れた魅惑的なカルマン渦の紋様を浸食し、砕き、焼いてしまっているのと同じことではないか?あるいは、ラヴェルの美しい<水>の調べを攪乱し、滑らかな楽譜に醜悪な不協和音を書き入れ、インクをぶちまけてしまっているのと同じことではないか?最後に、つぎの聖句を紹介して終わりたいと思います。信仰のあるなしに関わらず、今日の話しを聞いたあとで、以下の箇所はその神秘的な形象をとおしてある種の真実を伝えているように思えるのではないでしょうか。生命に先立ち生命を支えるものとしての<水>への畏敬のひとつのあり方を伝えると思います。
- 初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。
- やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
- 創世記1;1−2