はじめに
「水は無味、無臭、無透明で、物理、科学的にとくに注目すべき特徴もない。しかも、この地球上にどこにでもあるありふれた物質である。」と考えているものはいないだろうか。 もしそのような考えを持つ者がいるなら考えを改め、今後の生活を歩んでいってほしい。
水の奇跡
水は何気ない日常の中に存在する物体であるが、私たちがこうして地球に生きていられるのは水のおかげとも言える。その水を詳しく分析してみると私たちは水のさまざまな不思議に遭遇できる。まず、宇宙には無数の惑星が存在しているが、太陽系の第三惑星である地球だけがその表面に満々と水をたたえているのはなぜだろうか。第一に太陽からの距離にある。たとえば地球よりも太陽に近い金星では太陽からの受光量が多いため大気中の水蒸気は紫外線によって水素と酸素に分解され宇宙空間に逸散してしまう。その結果、金星を取り巻く大気の成分は二酸化炭素となり、その温室効果によって表面温度は500度にも達している。これでは水など存在できるわけもない。逆に地球より遠くにある火星の場合には、太陽からの受光量が少ないため、表面温度は−60度と低く、たとえ雪氷は存在し得ても液体の水は存在できない。地球は太陽からほどよい距離に位置したために適度な温度が保たれている。第二に地球の質量が水の存在に大変都合がよいことが言える。地球の質量はあまり大きくないため、水素やヘリウムは大気圏外に逸散してしまい、もう少し分子量の大きな窒素、酸素、水蒸気などが大気中に保持されたため地球に水が存在している。第三として大気中のCO2 が中和された海洋に吸収して減少され温室効果を低下させたので温度の上昇はさけられ、海洋は蒸発せず残ることができた。このような偶然とは呼びがたい偶然、奇跡が地球上に水を存在させている。
また水自身のもつ特有性によって私たちの生命は保持されているとも言えよう。比熱、
1gの物質の温度上げるのに必要な熱量が多くかかったり、固体のほうが液体の密度より大きいにもかかわらず氷が水浮き、その不思議によって地球の平均気温が保たれているという事実や(もし氷が沈んでいるとしたら地球上の平均気温は著しく低下する)、表面張力といって水同士が引き付けあう力によって、高い木々でさえも植物が水を吸い上げることができる。そのとき水の持つ特質の一つである他の物質を溶解する能力が著しく高いということから栄養分を溶かし、それを運搬することができるのである。そしてその栄養分を運ばれた木々は光合成をすることによって私たちに必要である酸素を作り出している。水の存在といい、その水自身の特質といい、偶然とは言いがたい水の奇跡が現在の地球形態のバランスをとり、私たちの生活を支えているのである。このようなことから考えてみると水は私たちにとって必要不可欠なものである。
水は無限に存在するものではない!!@
日本で暮らす私たちにとって石油、原材料などの不足とは対象的に幸いにも比較的水に恵まれた環境を維持している。しかし世界に目を向けてみると水不足に悩む国々は多い。生命活動を保持するために1日役2.5リットルの水分の摂取が必要だとされている。人間は水分のうち1%が不足しただけでも激しい喉の乾きをおぼえ、2から4%不足すると脱水症状が現れるとされている。そしてその他に私たちは体やものを洗ったり、農産物、工業製品を足り作ったりとさまざまに利用されている。実際地球には14億キロ立法メートルの水の量が存在する。しかしその97.5%が海水で飲み水に利用できる淡水は最終的にはわずか0.01%に過ぎないのである。現在アジア、アフリカなどの国々を中心に水不足は深刻な問題となっている。これら発展途上国は人口の急増、産業の著しい発展によって水の需要が増大している。水不足が原因で年間500から1000万人あまりの人々が死亡し、2億人あまりの人々が安全な飲料水を確保できない。また2025年には40億人の水が不足すると予想されている。これらのことから考えてみても水は無限に存在するものではない。そして私たち日本人も海外で起こっている事態という意識は捨てなければならない。なぜなら途上国で作りだされる生産物(生産するのに多くの水を要する)は日本に多く輸入されている。つまり、日本は間接的ではあるが途上国に水不足をもたらす大量利用者の一員なのである。
水は無限に存在するものでない!!!A
日本のように四方を海に囲まれ比較的水に恵まれた国とは別に、内陸地にある国々で国境間を流れる河川をめぐり多くの紛争が起こることが懸念されている。現在の、そしてこれからの水不足に不安をもつ国々が自分持ち分を強く主張するようになったからだ。例えばインダス、ヨルダン、ナイル、チグリス・ユーフラテス付近の国々がそうである。「20世紀の紛争が石油をめぐるものであったとすれば、21世紀は水をめぐるものになるだろう」と世界銀行副総裁のセラゲルディン氏が主張したが、その主張が事実となる日が目前に迫っているのが現状である。
水の特有性が及ぼす悲劇
上ですでに述べたように水の特有性、他の物質を溶解する能力が著しく高いことに起因し、途上国を中心として、世界各国で水質汚染という問題が起こっている。水不足と同じように、人口増加や工業等が急速に進みそれに追いつかない施設設備が途上国(世界人口の50%の地域は下水施設が未整備である)を中心として広がっている。水の汚染が原因で8秒に1人が死亡、途上国において80%の病気(下痢、コレラ、腸チフスなど)の原因は水の汚染、また、淡水魚の20% の種類は絶滅の危機など深刻な問題を抱えているのだ。
日本の経験を生かして
かつて日本も水質汚濁によってさまざまな不幸を経験した。例えば1953から59年に水俣地方で工業廃液による有機水銀に汚染した魚介類を食したことにより集団的に発生した水俣病は多くの犠牲者を生んだ。日本はこのような不幸を反省し、政治的政策で企業に対する規制をし、水質汚濁を防ごうとした。それが1970年の水質汚濁防止法である。工業、事業場の排水に一定の基準を設け、違反事業者には損害賠償責任、罰則を定め、公共用水域の水質汚濁を防止するための法律である。そして積極的に水の衛星施設設備を整えてきた。その努力あってか日本の河川や海は以前の美しさをほんのわずかであるが取り戻しつつある。これらのことを包括して考えてみると日本や他の先進国が中心となり、途上国、その国の企業に対し規制を設けるよう要請する必要がある。これらの問題は発展途上国の多くの人々にとって工業化の飛躍が現状の最も大きな目標となっており、なかなか水質汚濁の問題を深刻視する傾向にない。そこで他の先進国、国際機関、NGOの資金援助とともに発展途上国の政府、企業、また各個人に対しての環境における教育を積極的に行っていく必要がある。
私たちにできること
政府による介入によって改善しつつある工業廃水であるが、生活排水に対しての規制に対し、政府からの明確な指針は出されていない。しかし私たちは日常生活のなかで台所からの調理廃液や風呂、洗濯からの洗浄剤などの大量の生活排水を注ぎ出している。国民一人一人が水環境の汚濁の原因を作っているという認識をもち、生活排水をできるだけ排出しないという意識と努力が必要である。例えば台所において、三角コーナーとろ紙を利用して残飯を回収する。ソース、マヨネーズ、ドレッシングなどは紙でふき取ってから洗う。油などは油固化剤を用いるようにする。洗濯時には洗剤の量を考える。風呂においても湯船をはるのに必要な平均200リットルを洗濯時などに利用するなどの取り組みも必要である。このように私たちにできる身近なことはたくさんある。私たちはこの奇跡が生み出した生命にとってかけがえのない水を社会全体で守っていく必要がある。そしてそのことを念頭において今後の生活を過ごしていってほしい。