高校生の考え:「水は無味、無臭、無色透明で、物理・化学的に特に注目すべき特徴もない。しかもこの地球上のどこにでもある最もありふれた物質」
「水とはどんなものだと思うか」、と聞かれたとき、まず思い浮かべたのはどこの水、どういう状態の水だろうか。水道水、近所の川や池、湖、海、コンビニのミネラルウォーター・・・。私たちの住む日本には、身の回りに豊かな水がある。身近すぎて、味もにおいもない、物理・化学的にだって特徴なんてないだろう、と考えるのかもしれない。実際はとんでもない、特別のかたまりのような物質なのだ。しかし、その説明は理系の先生に任せることにする。今回は、水を「ありふれたもの」と捉えるあなたに、水が「特別なもの」として存在する世界を紹介したいのだ。未知の世界かもしれない。もしかしたらよく知っているかもしれない。知っていたけど忘れていたかも・・・。胡散臭いといわずに面白半分でいいから耳を傾けてみてほしい。
いつの世も水は生活に必要不可欠である。その昔、村落は川近く形成されていった。人々が水田を作ることでまとまっていったのである。また、海では、水自体を利用するものではないが漁などが行われ、人々の生活を支えてきた。川や海が生活の中心にあったのである。川は恵みを与えてくれる存在である一方で、氾濫し生命や財産を奪っていく恐ろしいものでもある。海もまた、豊富に与えるが、時に荒れて被害を及ぼす存在だった。与え、奪うという両側面があるがゆえに、感謝と畏怖の念から水に対する信仰が生まれ、その対象として水神や、その化身である竜・大蛇があらわれた。荒ぶる海を鎮めたり、水難に遭わぬよう祈ったり、また農耕に大きな影響を及ぼす降雨を祈ったりと、様々なことを胸に神を祀ったのである。また、重要である飲料水が湧きでる場所や井戸にも水神は祀られた。
地方・時代・宗教によって様々な水神が信仰されており、分類方法も様々であるが、そのなかでも割合普遍的であり、よく知られているものを紹介する。
竜神
竜は古代中国で神霊視された霊獣。古代日本の神話では(川を護る)水神、また海神として現れる。川においては竜を大きな川と重ねて見て祀られた。雲や雨を自在に操り、水を与えると同時に、氾濫し荒れて災いをもたらすこともある。海神としては漁師や海人によって信仰された。また、雲や雨水を司る神としても信仰され、雨乞いの対象ともなる。
雨乞いのいくつかのパターン
・ 怒っている龍神を鎮めるために、食物をささげる
・ 眠っている龍神を怒らせ、起こするために池や水源地に汚いもの(牛や馬の心臓や頭蓋骨など)や釣鐘を投じたり、池をかき回したりする
・ 木や藁で龍を作って、棲んでいるとされる場所からかつぎだしたり、かけ声をかけたり煙をたてたり、あるいは人形や、人間を生贄として差し出すといった、模倣儀礼を行う
・ 山上で火を焚き、ドラ(かね)や太鼓を打ち鳴らして大騒ぎする方法、唄や踊りで竜神を慰める
・ 神社に籠もり降雨を祈願する
・ 神聖な池や水源地から水をもらい、池にまいて降雨を願う など
川の神としては、毎年、子供を人身御供としてさしだし、災難を逃れたという古くからの言い伝えが残っているところもある。しかし、様々な伝説のなかでの竜は神として祀られ、崇められ、生贄がささげられるが、そのことによって恐れられ、最終的に退治されるものが多い。
弁財天
七福神の一人として知られるが、もとはヒンドゥー教の川の女神、サラスヴァティ(サラス=水、ヴァティ=持つ者)である。大まかに言って、インドの水の神である。インダス川の神格化したものだという説や、インド5大河地域の河川が神格化したものだという説、また、河川だけではなく池や湖などを含めた水の神格化であるという説がある。
この神には様々なご利益がある。
まずは本業である水の神として。しかし、直接水に影響をもたらすと信じられているわけではないようだ。流暢な話術が流れる水に例えられ、また、音楽も流れてゆく河の流れに例えられた。そこから川の神である弁才天は次第に言葉や音楽の神と同一視されるようになり、やがてそれが発展して学問や技芸をもつかさどるようになった。また、水は豊穣をもたらし、それが富へとつながることから財運の神ともいわれる。
そのほかにも長寿を与え、天災地変を除滅し、戦勝をもたらし、人の穢れを払い、縁結びをし、名誉や勇気、食物、愛嬌、それに子孫を恵む神であるといわれている。川の神様はなんでもできるのである。
さて、ここで私は、日本の弁才天に水の神らしい部分を発見した。インドの弁才天は、白鳥あるいは孔雀を従えているが、日本の弁才天は蛇なのだ。日本でなぜ弁才天と蛇が結びついたのか、詳しい説明を見つけることはできなかった。しかし、私にはこのことはごく自然なことに思われる。先に述べた竜神との関連で、川に棲む大蛇もまた、時には信仰の対象となっていた。そのため、別々の民間信仰ではあるが川との関わりの中で、弁才天の使わしめとして蛇が選ばれたのではないかという推測もできるのである。
また、弁才天を祀る社寺・祠の多くは、河川・池・湖・海近くといった水辺に置かれている。これはまさに弁才天本来の川の神としての性格が受け継がれたものである。そして湾にある小島や、瀬戸の中央にある島、川の中州などに海の守り神として弁天が祀られ、島自体が弁天島と呼ばれて信仰されてもいる。そのほかにも水辺に石像の弁才天が祀られていることがあり、これは水の神・弁才天として、農民に強く信奉されていた名残であると考えられる。
日本3大弁天
・ 近江国琵琶湖竹生島の弁天
・ 安芸国厳島神社の弁天
・ 相模国江ノ島の弁天
(5大弁天)
・ 陸前国金華山の弁天
・ 大和国天川または富士山山頂の弁天
(富士山山頂以外は水辺である。)
河童
一説には、水神の落ちぶれた姿であるともいわれているが、神とはいえないかもしれない。古来の水に対する信仰と、近代までの民間信仰とが複雑に絡み合い、生み出されたと見られる。名も様々で、水神として呼ばれている例はメドチ(東北地方)、ミンツチ(北海道)などである。また、カッパ(河童)は文字通り水にすむ童として、子どもの姿を強調している。同じ系統としてはカカワランベ(関東地方)、ガラッパ(九州地方)がある。また、動物との認識から呼ばれている例はエンコウ(中国・四国地方)、カブソ、カワッソ(北陸地方)などである。その他にもヒョウスベ、サンボン、テガワラという名がある。見た目では頭の皿の有無、赤ん坊のようなもの、亀やすっぽんに似たものなど地域によって様々だ。凶暴な性格とされていることが多いのは、水難に遭ったときの恐怖からきたものではないかとする説もある。
以上で見てきたとおり、水は古来、決して「ありふれたもの」ではなかった。現在、私たちが昔の人々のように畏敬の念を持って水に対する機会はほとんどない。だが、誰にでも一度くらい感じたことがあると思う。海へ泳ぎに出て沖へと進んだときの、少しの恐ろしさ。炎天下で走り回った後に飲んだ水の清涼感。台風のあと増水した川の流れや、突然の雷雨の持つ得体の知れない力。昔の人々はそのひとつひとつに自分の力の及ばない部分を感じ、水の神を作り上げたのではないだろうか。今の私たちに水の神を信じる心はない(といってよいと思う)。しかし、いくら科学が進んでも、人間の力ではどうしようもないことは沢山ある。今一度身の回りにある水を、水道水のように人間に飼いならされた水ではなく、生きた、自然の中にある水を見つめてみてはどうだろう。そのとき、あなたが見ているものは、きっと「ありふれた」水ではなくなり、もっと大きな何かになるのではないだろうか。
参考:
河童共和国(熊本県八代市ホームページ)
http://www.d1.dion.ne.jp/~yosidash/roman/toraidennsetu.html
七福神研究:http://kanazawa.cool.ne.jp/genzaburo/BenzaitenGod.htm
水神信仰と雨乞い(世田谷区ホームぺージ) http://www.city.setagaya.tokyo.jp/english/eigo_koho/1999/9905j/sub3.htm