水文学にみる水の意識―暴走授業―

 

                 本坊 吉史

 ではみなさんは、水が「水は無味、無臭、無色透明で、物理・化学的に特に注目すべき特徴もない。しかも、この地球上のどこにでもある最もありふれた物質だ。」とお考えなのですね。

 しかし、それはあまりにも短絡的な考えです。水は、水素原子2個と酸素原子1個の分子としては、たしかに地球上のどこにでも存在するでしょう。ですが、地球規模で見て我々が利用する事のできる水は、人口の増加や水質汚濁から減少の一途をたどっています。その水を巡って紛争を起こしている地域もたくさんあります。それらについては次の時間に話しましょう。

 今回は水文学についてお話します・・・いえ、「すいもんがく」ではありません。「みずぶんがく」です。つまりは人間が、遠い昔から水に関して何を思い、何を考えたか、という、そういうことです。

 みなさんは、倫理の時間、漢文の時間に諸子百家を習ったろうと思います。蛇足ながら、諸子百家は中国、春秋戦国時代に現われた多くの思想家の総称です。彼らが、あるいは彼らの弟子が記した書物には、彼らの思想が格言的に記されていて、そのなかには水、あるいは川などを題材やたとえに使ったものがいくつかあります。またそれらは、他の中国古典の中にも見ることができます。

 

「論語」

○知者は水を楽しむ。

―水は流れる。知者は、この流れてやまぬ水の姿を楽しむものだ。頭も流動的である。

 

「孟子」

○滄浪の水、清まば以て我が纓をあらうべし。滄浪の水、濁らば以て我が足をあらうべし。

―水自身の清濁によって、尊い冠のひも(纓)を洗うことにもなるし、足を洗うことにもなる。人間の心がけの良し悪しによって良い結果を生むことにもなるし、悪い結果を招くことにもなる。

○水は打ちて之を躍らせば、額を過ごさしむべし。激して之をやらば、山に在らしむべし。

―流れる水を手で打てば、はねあがって頭をとびこえる。また下流をふさげば、逆流して山のほうへ行く。すなわち、水本来の性質は低地へと流れていくものだが、それに逆らえば、このようなことにもなる。人の本性は善であるが、物欲に誘われ利害に惑わされれば、その勢いの赴くところ、もろもろの悪事をすることになる。

 

「詩経」

○その深きに就いては、之に方(いかだ)し之に舟す。その浅きに就いては、之に泳(みずく)ぐりこれにおよぐ。

―川の流れが深いなら、筏で渡り、あるいは船で渡るのがよろしい。もし浅いのならば、もぐったり泳いだりして渡るのが良い。時世に従えよという処世の心得である。

 

「老子」

○上善水の若し。

―最上の善は水のようなものである。水が上善である理由は三つある。第一に、水は万物に利沢を与えている。天地の間に、水なくして存在するものは一つもない。それほど大きな存在でありながら、水は他と功名を争うことはない。第二に、人間は一歩でも高い位置を望むが、水はその反対に低地へ低地へと流れていく。第三に、低地にいるからこそ自分が大きくなる。谷川はながれて大川となり、さらに流れて海となり、大きな存在となる。

○柔弱は剛強に勝つ。

―世間では強いものが弱いものに勝つと考えられているが、実はその反対で、弱いものが強いものに打ち勝つ。世の中に水ほど柔らかで弱いものはない、その水は巨船を浮かべ、鉄を腐敗し、したたりおちて石をもうがつ。名刀は鉄を斬ることはできても水を斬ることはできない。難解な議論がやさしい言葉に如くはないのも、その一例である。

 

「荘子」

○水の道に従って、私を為さず。

―水にはおのずから水の行く道がある。その道に従って泳ぎ、自分の意思を用いない。これが流水を泳ぐ極意だ。孔子が呂梁に行ったとき、一人の若者がすさまじい急流を泳いでいた。孔子が驚嘆してその方法を聞いたときに、若者はこの言葉で答えた。境遇に逆らわないことが、人生に生を全うする道である。

○人は流水に鑑みる莫くして、止水に鑑みる。ただ止のみ能く衆止をとどむ。

―だれでも、流れる水には真の影は映らないから鏡とはしないで、静止した水に自分を映してみる。人も常に止水のような静かな心を持っていれば、世間一般の定まった真の姿をとらえることができる。

 

「十八史略」

○人生は朝露の如し、何ぞ自ら苦しむこと此の如き。

―人の一生は朝露のように、はかないものである。その短い一生を、何でこんなに自分から苦しむ必要があろうか。

 

「宋名臣言行録」

○水に至って清ければすなはち魚なく、人至って察なければ即ち徒なし。

―水があまりにきれいすぎると、そこには大きな魚は住むことができない。もし人を治める者が、あまりに明らかにすべての細かなことを見抜いてしまうと、その部下には人材が集まらない。やはりある場合には目をふさぎ。耳をふさぐ必要があるものである。

○智はなお水のごとし。流れざるときはすなはち腐る。

―流れていないと水は腐る。人間の知識も同様で、これを運用しないと働きがなくなるものである。

 

と、まあこのような具合です。よくみてみると、水を世間、社会として捉えているものと水を人間の本質あるいは理想的な人間の在り方として捉えているものの二つに大きく分けられます。どちらにしても水の性質に根ざしたものだと思われます。無味、無臭、無色透明、重力に逆らわず高地から低地へと流れ、一つの巨大な分子のようにふるまい、いかなる形にも変化するという水の性質です。そのような水の性質に、古代中国の人々は深遠なる真理を見たのだと思います。水がみなさんの言うように特徴が無く本当につまらない物質であるとすれば、これらの言葉は一体何処より生まれたのでしょうか。

 

 次ぎに日本文学について考えてみます。みなさんは宮澤賢治という人、彼の作品はご存知だと思います。「銀河鉄道の夜」はあまりに有名ですし、そうでなくとも「やまなし」は小学校の教科書に、「なめとこ山の熊」は中学校の教科書に載っていたはずです。さて、彼の作品には水、川など水一般を題材にしたものや、水を感じさせるものがたくさんあります。

 

○雨、恵みの雨の表現  

・グスコーブドリの伝記 飢饉(冷夏、旱魃)

・十力の金剛石 

―そして十力の金剛石は野ばらの赤い実の中のいみじい細胞の一つ一つにみちわたりました。 その十力の金剛石こそは露でした。―

 

○雪、氷の表現     

・雪渡り   

―「堅雪かんこ、凍み雪しんこ」―

・永訣の朝 

―(あめゆじゅとてちてけんじゃ)―

      

○水の世界(水の中や川を舞台にした話)

・双子の星(彗星編)

・やまなし

・台川

―渓が見える。水が見える。波や白い泡も見える。ああまだ下だ。ずうっと下だ。釜淵は。ふちの上の滝へ平らになって水がするする急いで行く。それさへずうっと下なのだ。―

―水の流れるところは大丈夫滑らないんだ。〔水の流れるところをあるきなさい。水の流れるところがいいんです。〕―

・イギリス海岸

―私たちは忙しく靴やずぼんを脱ぎ、その冷たい少し濁った水へ次から次と飛び込みました。全くその水の濁りやうと来たら素敵に高尚なもんでした。―

・蠕虫舞手(アンネリダタンツェーリン)

― (ええ 水ゾルですよ

   おぼろな寒天(アガア)の液ですよ)―

 

○他の物質の水への転化(水のイメージ)

・双子の星(蠍編)

・銀河鉄道の夜

― 河原の礫(こいし)は、みんなすきとほって、たしかに水晶や黄玉(トパーズ)や、またくしゃくしゃの皺曲(しゅうきょく)をあらはしたのや、また稜(かど)から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとほっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えたのでもわかりました。―

 

 彼の中で水がどんなイメージとしてあったのかはわたしの知るところではありません。が、以上に挙げた作品にだけでも、美しく水が表現されています。特に「銀河鉄道の夜」では宇宙全体えお大胆に水に変化させています。彼にとっては、宇宙は水で満たされたように感じられたのでしょうか。作中にある「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。・・・」という言葉や「春と修羅」の「序」にみられるように、この仮説もあながち見当はずれではないようにも思われます。いずれにせよ、農業改革者にして宗教家、地学者、化学者、天文学者、音楽家、童話作家、詩人であった、いや、むしろ「宮澤賢治」という人自身としての賢治ならではの考えだと思います。私が思うに、彼は、あるいは人よりも強く水を感じる事ができたのでしょう。

 

 以上のように、かなり偏向ではありますが、水が文学、人間の精神にに与えた影響は計り知れないものがあります。なぜでしょうか。それは人々が太古から水の意識、イメージを感じてきたからだと私は思います。そして水のイメージは人類にとって普遍的なものなのだとも。あらゆる人間は胎児のとき子宮の中で羊水につつまれています。また海は、現在では生命の源であることは明らかですし、そのような科学的証明がなされる以前の人々も、広大なる海に自分たちの源を感じたはずだと思います。それは世界各地の神話から読み取ることができます。古代エジプトの神話では、世界の始まりは無限である闇の水の広がりというイメージを持つ「原始の海=ヌン」と考えられました。これはナイルの氾濫による果てしない量の水、そして氾濫によってもたらされる土の豊穣さからきたものです。インド神話における天地創造は一説によれば「はじめ、原水の中にヒラニヤ=ガルバ(黄金の胎児・黄金の卵)がおり、そこから創造神・プラジャーパティが生まれた」とされています。

 

 ですから、私は、水が無味、無臭、無色透明で、物理・化学的に特に注目すべき特徴もない、しかも、この地球上のどこにでもある最もありふれた物質、という存在ではなく、より高いレベルでの存在であるということをみなさんに言いたいのです。水は大いなる時の中で大循環を繰返し、生命、いえ、あらゆる存在を受けつないできました。水の記憶は46億年の地球の記憶なのです。その先端に、いまここにわたしたちがいるというこの事実に、感動するといえばいささか行き過ぎでしょうか?でも、事実そう思います。そして、水を通じて私たちは繋がっているのです。水を感じ、その先に繋がっているすべてのものを思うことができれば、この世界は、確実に、いままであったどんな楽園よりも、天上よりも、ずっと素晴らしいところになるでしょう。

 ・・・そろそろ時間ですね。拙講にお付合いいただきありがとうございました。それでは今日で春学期は終わりですから、家に帰って、水をよっく観察してごらんなさい。水を感じてごらんなさい。水の感覚、それを失ってはいけません。

 

参考資料

○「中国古典名言辞典」 諸橋轍次著 講談社学術文庫
○「宮沢賢治全集」         ちくま文庫
○「歴史ファンワールド5」     光栄

 


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