NS-。自然の化学的基礎  最終試験

         「水」について 

                        021115    石丸陽子

 

 「水は無味、無臭、無色透明で、物理・化学的に特に注目すべき特徴もない。しかも、この地球上のどこにでもある最もありふれた物質だ。」水について、あなたがこんなふうに考えるのも無理はありません。家でも学校でも、蛇口をひねれば水はいつでも出てくるし、近くに川が流れているのも日本のまわりを海がとりかこんでいるのもあたりまえのこと、特に意識するようなことではない、わたしもずっとこう思っていました(思っていた、というのは正しくないかもしれませんね、水について、もともと意識したことはほとんどなかったのですから)。今のような梅雨の時期、雨が多くて学校に行くのが不便だったり台風や大雨で怖い思いをしたり(私が住んでいた九州ではよくあることでした。小学生の時、豪雨で床上浸水の恐怖を味わったのは未だに覚えています)、または、逆に水不足で困ったり。何か特別な出来事が起こらない限り、普段の生活でとりたてて考えることはない、これはある意味で自然なことでしょう。だけど、大学の授業で「水」について学ぶ機会を得たことで、わたしの考え方はだいぶ変わりました。今日は、そのことについて話そうと思います。少しの間、耳を傾けてみてくださいね。

 いまの私たち人間が確認できる限りでは、宇宙に無数に存在している天体の中で、または9つの太陽系惑星の中でであっても、生物が存在するのは地球だけです。これは、液体の水が存在するのは地球だけである、ということと密接に関わりあっています。あなたも十分承知しているように、水なしには生物は生きられないのですから。では、どうして地球だけに水が存在できたのでしょう?それは、太陽からの距離と地球のサイズが、水が存在しうるための条件をぴったり満たしていたからなのです。惑星のなかで、地球より太陽に近い水星や金星では水は水蒸気で、太陽から遠いほかの惑星では、水は氷結しています。また、地球の大きさも、水が存在していることと関係があります。太陽からの距離でいえば、月も地球と同じです。なのに月に水がないのは、水分子を引力圏内にとどめておくのに十分の重力がないから。これだけの条件を満たしてるのって、なかなかの偶然だと思いませんか?この偶然の上に、わたしたちは存在しているんです。

 さて、地球は、その全表面の3分の2を水で覆われています。生命は、今から約35億年前に海の中で発生しました。両生類が地上に上がって生活し始めたのが4億年ということですから、生物は約30億年も水の中で生きてきたのです。陸に上がってからも、私たち人間を含む生物は水と共にあります。陸上の生物の体は、50〜70%が水分です。人間は生まれてくる前、10ヶ月の間母の胎内で、羊水の中で生活し、生まれてから死ぬまで水なしで生活する日は全くないと言ってよいでしょう。3分の2を水で覆われていると言うと、私たちが使うことのできる水は無限にあるような気がしてきますが、実はそうではありません。生物が、命の維持のために必要としているのは淡水です。地球上の水は97%が海水で、2%は氷の形で存在しているということですから、生物が利用することのできる真水はほんのわずかなのです。この、ほんのわずかの水を、わたしたち人間はほかの生物と共有して生きているのです。この事実を、わたしたちは忘れがちです。それが、人間による水の汚染、環境の破壊につながっているような気がしてなりません。産業が発展して、わたしたちの多くが直接自然に触れることの少ない場所で生活するようになっていくにつれて、人間と自然との関わり方は随分変わってきたのではないでしょうか。―――と言っても、わたしもそうえらそうなことは言えません。わたしとあなたの年の差はほんの少し。わたしたちが育った状況はほとんど変わりないでしょう。わたしたちが生まれた時、自然と人間はもう随分離れて存在していましたよね。ただ、私の乏しい経験から言えば…まだ小さかったころ、山で囲まれた町で暮らしていた頃の私――祖父母が植えた野菜が、畑で大きくなるのを毎日見て過ごし、虫取り網を持って蝶や蝉を追いかけまわし、春先には野イチゴや蕨を採りに山を歩いた――と、市内の住宅地に引っ越してから、そして東京に来てからの私とでは、「水」の意味は確実に変わっています。以前のわたしにとって、水は植物を育てるのになくてはならないもの、山の中をちょろちょろ流れているもの、そしてめだかやザリガニやハヤ(名前の通り動きがとても速くてなかなか捕まえられない魚です)が住む川でした。ところが今、水と言えば水道の水か、またはペットボトルに入れられて売られているもの。この意識の差は、わたしの自然に対する考え方、感じ方に大きく影響しているでしょう。改めて考えてみるまで気がつかなかったけれど、いつのころからか私は自然に対する畏敬の念を忘れ、傲慢になっていたようです。蛇口をきちんと締め忘れてぽたぽた水が落ちていても、1日に何度もシャワーを浴びようが、洗剤で泡だらけになったスポンジでお皿を洗おうが、もったいない、悪い、と思いはしても「私一人くらい、いいや」と思っていました。みんなが「私一人くらい」と思った結果、問題になっている水の汚染を生み出しているのも気づかずに。洗い物は最小限の水で、お風呂の水は翌日の洗濯に、お米を洗った水は畑に、とかく水を大切に生活していた祖父母とは大違いです。またえらそうなことを言ってしまうけれど、生活を取り巻く環境が自然から離れるにつれて、わたしたちの自然への意識は確実に悪いほうへ、より傲慢に変わっています。これは危険です。わたしたちは、汚してしまった水の姿を見ることはあまりありません。いくら洗剤や油をキッチンから流しても、その水がそのあとどこへ流れて行くのか見えないから、のうのうとしていられるのです。人間の手によって汚された水のために命を危険にさらされる動物や植物のこと、わたしは今まで考えた事がありませんでした。

  

・・すこし話を変えて、水が人間の暮らしをどのように支えているか、ということについてお話したいと思います。わたしたちは、どのように水を利用しているのでしょうか。人間にとって、水の機能は大きく次の5つに分けられます。@生命維持機能。その名の通り、生命の存在を維持する機能。わたしたちは、水なしでは5日と生きられないといいます。A衛生保持機能。人体の衛生、生活環境の衛生のために。汚れたものを洗い流したり溶かしたりして排除する。B搬送機能。水は物体に浮力を与え、または水流によって、ものを運ぶのに一役買っている。人や物の移動に、昔から水の力は欠かせないものだった。C気候・温度調節機能。水は気候に大きな影響を与え、シャワーは体温を調節する。D心理的効果。水の存在は、人間の心理に影響を与えている。公園や庭園、街路や広場での水は人の心をなごませる。――――――普段、あまり意識することはないけれど、こうやって考えてみたら人間は水なしでは生きられない、ということが実感できるでしょう?この水を、あまりにも粗末に扱ってきたことを、わたしは今反省しています。地球の3分の2が水で覆われていると言ってもそのうち生物が使うことのできる淡水はほんのわずか、毎年天からいただく水の量は変わらないのに、使用量ばかりが増えて行く。水質は、どんどん悪化していく。このままでいいわけがありませんよね。「水はどこにでもありふれている物質だ」という考えを少し改めて、私たちに水が恵まれた奇跡、生活のあらゆるところで水の恩恵を受けている事実を忘れないようにしましょう。わたしたち人間がつくりだした、水の現状を直視し、「私一人くらい」と言わずに何か行動をおこしてみませんか。水を使いすぎない、油を流さない、むやみにものを捨てない。とても小さいことのように思えるし、一人だけがんばって何になるの、と思うかもしれないけど、一人一人がやらないで、一体誰がやるのでしょう?

 今日は、話を聞いてくれてありがとう。最後に、この「水」の授業で最も印象に残ったこと、考えさせられたことを聞いてください。「人知を超えた偉大な存在」。キリスト教を知らないわたしにとって、それがキリスト教でいう「主」「神」ではないと思います(なにしろよく分からないので…)。人知を超えた存在、このことについて前から私なりに考えてきたけれど、この授業を受けるようになってからほど意識したことはありません。いつもは忘れがちだけど、「わたし」が生きているのは決して当然のことではないということ、生きているというよりは、何か大きな力によって生かされていると言ったほうが正しいということ。長い長い地球の歴史、それより遥かに長い宇宙の歴史。この時間の中で、人類の命、そして私自身の命はなんとはかなく短いものでしょう。だけど、どんなに短くて小さいものに思える命であっても、だからと言って人生は無意味であるとかどうせ短い命なのだから好き勝手していいということではない。わたしの命もあなたの命も、宇宙全体から見ればほんの一瞬のもの。私たちが住む地球だって、いつかはなくなってしまう。だから人生はむなしい、とは思わないで、こうやって命を与えられた偶然に感謝して生きて行こうよ。「畏れる」気持ちを持ち、私たちの小ささや限界を忘れずに。


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