NS 。  自然の化学的基礎 最終試験                        2000年6月21日 

                           031146 梶田 真美

 

水―そのありふれているという価値

 

 水。それは確かに私たちの生活のいたるところに存在している。必要なら蛇口をひねれば出てくるし、欲しくなくても空から雨として降ってくる。常に空気中に水蒸気として存在し、冷たいコップの回りや早朝の草花に露としてその姿をあらわす。そして川に、なにより海に無駄に思えるほどたくさんある。また、水は外の世界だけでなく私たちの内側―体の中にも存在する。人間の体は実にその60%が、水からできているのだ。私たちが水に触れない日はない。水は私たちにとって、地球上でもっともありふれた物質だといえるだろう。だが、ありふれたもの=価値がないということは決してない。むしろその逆で、水は、ありふれているから価値があるのだ。

 では、水が今より少なかったら、何が起こるのだろうか。一番考え易いのは水不足である。これは常に起こりうる可能性をもっている。私たちは蛇口をひねれば、24時間365日きれいな水が勢いよくでてくるのが当然だと信じ込んでいる。しかし、いったん水が給水池に充分な水量がなくなると、その神話はもろくも崩れ去る。まず、水道の水圧が低くなる。蛇口をひねってもちょぼちょぼとしか水が出なくなる。シャワーも快適にあびられなくなるし、食器洗いや洗濯など、水が少ししか出ないために所要時間は大幅に増えることだろう。次に、蛇口から水が出る時間が減る。最初は深夜、みんなが水をあまり必要としない時間から、どんどんその時間帯は拡大する。しだいに水が出る時間よりも出ない時間のほうが多くなる。こうなってくると、もう日常生活はできなくなってしまうだろう。水が出る時間は家に待機して家中の入れ物に水を溜めなければならなくなる。一日分の水量を、である。私たち日本人は一日あたり平均で一人250リットルもの水を使っている。これはだいたいお風呂の浴槽一杯ぶんにあたる。4人家族なら1トン、浴槽4杯分だ。水が使えないということは飲み物が不足することだ、と考えるかもしれない。私はいつもミネラルウォーターを買って飲んでいるから関係ない、と思う人もいるかも知れない。だが、水不足はそんな甘いものではないのだ―入浴時や食器を洗う時に不便を感じるだけではない。水が流れないならトイレも流れなくなる。洗濯機には人力で水を流し込まなければいけない。しかも洗いと濯ぎ、少なくとも2回だ。しかし、肉体的・物理的な苦痛はそれほど恐ろしくない。一番怖いのは水がない、使っちゃいけないという精神的苦痛なのである。バケツの中の水が減っていくのを不安に感じるだろうし、回りの人間が水を多く使いすぎないかお互いに監視するようになるだろう。実際、節水を体験してもらった福岡県のある地域の家庭へのアンケートからは、精神的なものが一番の苦痛であったとの回答がもっとも多かった。

 また、日常生活に直接影響ないところからも水不足の恐ろしさは忍び寄る。農作物がとれなくなる。輸入すればよいと思うだろうが、水不足はわが国の主力産業である工業、とくに半導体産業にも大打撃となる。半導体の生産過程には大量の水が必要なのだ。水不足が続くと自動車、パソコン、テレビ、携帯電話、どれも満足に生産できなくなる。輸出量が減る、利益も減る。半導体に支えられている国全体の産業はストップするだろう。お金がなければ食物の輸入も困難になってくる。水が足りないだけで、一国存亡の危機を迎えるかもしれないのだ。

 では、水のありふれた性質がそうではなかったら、どうだろうか。水は0℃で氷になり、100℃で水蒸気になるし、10センチ四方の入れ物に入った水の重さは1キログラムである。諸君はあたかも既存の単位で水がきりよく表されているかのように思っているだろうが、実は反対だ。水が氷になる温度を0℃にしたのだし、水が水蒸気になる温度だから100℃とされたのだ。同じように、10センチ四方の入れ物に入った水の重さが1キログラムと決められた。なぜ水が基本なのか―答えは簡単、世界中どこにでもあるからだ。水が今の温度で変化しなかったら、今の重さでなかったら、私たちの使う単位も変わっていただろう。

 水は温まりにくく冷めにくい。この性質も、私たちの生活に大きく関わっている。太陽の出ている時間とそうでない時間の温度差がそれほど大きく感じられないのは、巨大な水の塊、海があるからだ。日中、太陽熱を吸収し夜間にその熱を放出する。この吸収、放出がゆっくり、長時間にわたって行われるから私たちの住む陸地の温度は一定に保たれているのだ。水のない砂漠では太陽の出ている昼間の温度は50℃以上、夜は零下にまで気温が変動する。こんな環境では人をはじめとする動物や多くの植物は生きていけない。また、生体内にそのような性質を持つ水を多く含んでいるからこそ人間の体の温度は爬虫類のように変化しないで、各体内物質が適宜働ける39℃前後に保たれている。水のおかげで私たちは一年を通して同じように活動していけるのだ。

 そして、普段意識されることなく私たちの回りに存在している水、水蒸気も大きな役割を果たしている。水は少量であれば常温であっても常に空気中へと蒸散していく。この性質のおかげで水は最終駅である海から天へ、生まれ変わるために昇っていけるのだ。水の地球上に存在する量は決まっている。もし絶対に100℃にならないと蒸発しなかったら、海は溢れ雨は一滴も降らなかっただろう。また、私たちは温度調節のために常に発汗している。この汗が水蒸気へと気化することで、体温を下げることができる。雨の日に体調が悪いと感じるのは、汗がうまく蒸散されず体温調節がうまくいかないからだ。こうして空気中に放出された水蒸気は、私たちの皮膚を守っている。平気な顔をして肌を出していられるのは、水蒸気が空気中に存在しているからだ。湿度が50%をきると肌が乾燥したように感じる。冬場になると肌に弾力性の衰えを感じることがあるのはこのためだ。もし水蒸気の量が著しく少なかったら、皮膚から水分が奪われからからになってしまう。私たちの肌が爬虫類のようにうろこに覆われずに済んでいるのも、水のおかげと言えるだろう。

 このように、われわれ人間の生活はありふれた水の上に、ありふれた水の性質のおかげで成り立っている。水は、私たちになくてはならないものであると同時に、私たち自身でもある。私はありふれたもののなかにこそ価値があると考える。金やダイアモンドなど存在量が少ないものは私たちの生活において本当は価値がないのだ。このような希少価値をもてはやすことができるのも、やはりありふれたもののおかげだ。ありふれているからこそその価値を見失ってしまいがちだが、どうかそのことを忘れないでいてほしい。そして、実は限られた資源である水を、もっと大切に、興味をもって接してほしいと思う。


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