水の思想性・精神的価値

            021513 山口 円

 

 確かに水はどこにでもある。ありふれた価値の無いものに見えるかもしれない。しかし、人間が水を重要なものだと考えてきた証拠、人間が水を求めている証拠というのはたくさんある。もちろん生物学的にも人間は水無しでは生きられないけれど、それだけではなく、人間は太古の昔から水について考えることや水と共に在ることを精神的にも重視してきたのだ。

 例えば、諸氏百家の一つである道家思想でも、水はよく取り上げられている。道家思想では柔和なもの、弱いもののもつ真の強さということが重要視されていて、その例として、「身体の中で最も固いものは歯であり、最も柔らかいのは舌である。歳をとれば歯はすべて抜け落ちてしまうが、舌はいつまでもぴんぴんしている」というようなものがある。道家思想においては、堅固なものほど脆く崩れやすく、柔和なものほどその実強く長持ちすると言われている。その最も良い例として、水が挙げられているのだ。水は器とともにその形を変えるが、山や丘を沈める力を持っている。弱く見える水こそ、実は強いものなのだ。また、道家思想において水は生命の象徴でもある。柔らかさ、弱さこそ生命のしるしであると考える道家では、水はまさに生命の特徴、そして強さを象徴しているのだ。そして、「上善は水の如し」という有名な言葉があるように、道家思想は水の中に人間の生きる道を見る。老子著『道』によれば、水には三つの特性がある。第一に、水は万物を育て養う。第二に、水の性質は柔らかく弱い。自然に従い、争うことはない。第三に、水は人々が嫌がる低い所へ流れる。水は低い所へ流れ、徳のある人は人の下に甘んずる。水は万物に施し、徳のある人もまた、施して報酬を望まない。水は万物をありのままに映し出し、徳のある人の言葉は偽りがない。水は柔らかく弱く、どこにでも流れて行く。人々も水のように争わず下に立つことができてはじめて、「道」に近付くのである。このように、道家思想は水の中に人のあるべき姿を見たのだ。これらの思想は、人が水の中にどれだけのものを感じ取ってきたか、水をどれだけ素晴らしいものとして見てきたのかのいい見本だと言うことができるだろう。

 また、水は何故か人の心を安らげる力を持っている。井戸端会議、と言うように、水のある所には何故か人が集まる。日本庭園には自然をそのまま模したが如く水の流れが作られ、人の心を癒している。理由も無く、海や川へ行くとそこに落ち着いてしまう。子供は水遊びを好むし、大人も「リラクゼーション」と言って海の音を聞いたりする。雨の音を聞いていると落ち着いてよく眠れるとはないか。水に触れ、水を眺めているだけで、何かなつかしい気持ちになったことはないだろうか。わたしはここに、体内の記憶、羊水の中にいた記憶があるのではないかと思う。そしてまた、水から生まれた太古の生物としての記憶があるようにも思う。生き物としてのヒトの精神が、水を求めてやまないなのだ。

 こうして見てくると、人間の精神が、人として、ヒトとして、どれだけ水というものに関わっていこうとしているか、水への方向性を持っているかがわかってくるようにも思う。人間は太古から水を愛し、水を考え、水と関わってきた。生物としての根本にも、人間の精神の根本にも、水というものは深く関わっている。水はありふれたものに思えるかもしれない。しかしそれは、水への意識があまりにも人の精神の深くまで、至るところまで行き渡っているからではないだろうか。それほど、水は人間の精神を満たしているのだ。


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