自然の化学的基礎                              2000年6月21日

"水・自然・人間"

               021323 置田 清和

 

 日本という国土は周りを海洋に囲まれ、アジア・モンスーン地域に入っているため、降水量も豊富、しかもインフラ整備がととのっているためほとんどの都市部では蛇口をひねれば水が、しかも一応飲んでも大丈夫な安全さをもって供給される、というように、「水」という観点からみれば非常に豊かで恵まれた環境である。子供のころからこのように「水」が身の回りにありふれた状態である環境に育てば、その貴重さ、大切さに実感が持てないのも無理はない。人間は手に入りにくい物であればあるほどそれに価値をおくからである。しかし、この日本という国からもう少し大きく視野を広げ、地球規模、宇宙規模で「水」というものを捉え、また、「水」がわれわれの生命活動にとってどのような役割を担っているか、ということを意識するなら、最早「水」が注目すべき点など一つもない、ありふれた物質だ、などということは考えもしなくなるだろう。このレポートでは第一に宇宙的、地球的な規模でマクロな視点から捉えた場合、「水」、特に液体としての「水」というものがいかに希少な存在であるか、すなわちいかに「有り難い」ものであるか、を指摘し、第二に今度はミクロな視点からその希少な水がわれわれの体でどのような役割を担っているか、という考察を通してわれわれにとっての「水」の重要性を認識することを目標としたいと思う。

1、「水」の「有り難さ」

 われわれが住む地球は太陽系に属しており、この太陽系には太陽を中心として水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星と九つの惑星が回っている。この中で、火星は過去に水が存在したかもしれない(*図1)と言われているが、現在液体としての「水」が存在するのは地球だけなのである。例えば、地球より一つ内側にある金星では、地球より30%ほど太陽に近いことと、大気中の炭酸ガスが多いことからくる温室効果によってその表面温度は470℃にも達し、水は液体として存在することはできない。ちなみに、この地球も現在の位置より5%ほど太陽に近ければ、金星と同じように水は液体として存在することはできなかっただろう、と言われている。次に地球より一つ外側にある火星では、太陽からの距離が地球の1.5倍あるため、地表の最低気温は−139℃にもなり、南北両極にはドライアイスの雲がたなびいているという。当然この場合水は凍りついてしまい、やはり液体としては存在していない。このように、「水」は地球より内側では温度が高すぎて気体になって蒸発してしまい、地球より外側では温度が低すぎて固体として凍ってしまう。そして唯一地球だけはその地表温度が+−数十度の範囲にあるために気体、液体、固体という三態の形で水が存在できるのである。これだけでも、われわれが普段「水」といってイメージする液体としてのH2Oという存在がいかに存在しにくいものであるか、まさしく「有り難い」ものであるか、がわかると思う。

 次に地球的視野で考えてみると、地球表面に存在する全水量は約14億立方キロメートルだが、そのうち97.5%は海洋の塩水であり、淡水はたった2.5%しかない。その上、たった2.5%しかない淡水の70%は極地の氷、29%は地下水であり、われわれが一般に利用可能な湖沼水、河川水、そして地下水の一部は全淡水量の1%にも満たないのである。さらに、われわれに利用可能な水資源は降水によってもたらされた淡水100兆トン/年のみであるが、そのうちわれわれが実質的に利用できる限界利用率は20%つまり100×0.2=20兆トン/年しかない。それではこの年間20兆トンという利用可能な水はいったいどれくらいの人間の命を支えることができるのであろうか。

 上記の図は世界の人口と水需要についての関係をグラフで表したものである。これをみると、2000年の時点で地球上の人口はすでに約65億人に達しており、かつわれわれに利用可能な20兆トンの水で支えることができる人口の限界は約68億人程度であることが分かる。つまり、世界的規模でみた場合、われわれの世界の人口は現時点ですでに利用可能水量で支えることができる人口限界にほぼ達しているのである。しかも、この数字はあくまで水が全人口に均等に行き渡ったとしたら、という過程の上での話であるから、実際にはすでに水の絶対的な不足に悩まされている地域がこの地球上にはあるのである。

 さらに視野を狭め、日本における降水利用状況をみてみると、日本における降水の利用率は15%と一般的な利用限界率を5%も下回っている。 上記の図を参照すると、日本では融雪期、梅雨期、台風期など降水量が増加するときは河川も同時に水量が増加しているのが分かる。これは、日本は急峻な山岳地帯と海岸との距離が短く、雨がゆっくり流れずに一気に川をくだってしまうからであると考えられる。従って日本では降水の利用限界率が15%と低くなっているのである。

 以上のことから、われわれが普段何気なく使い、触れている「水」それも液体としての「水」の存在はありふれているどころか、ありふれている、という状況そのものがいかに特殊な状況であるか、宇宙的・地球的な視野で捉えるなら「水」がいかに「有り難い」ものであるかが分かったと思う。では次にもう少しミクロな観点から、液体としての「水」がわれわれの生命活動においていかに重要な役割をはたしているかをみてみたい。

 

2、人体における「水」

 すべての生命は海水から生まれたと言われるが、われわれ人間もその例外ではない。そして健康な成人男子で全体重の約60%、生まれたばかりの新生児では全体重の約75%もが「水」によって占められているのである(図2)。そして人は食料がなくても水さえあれば数週間は生きられるが、体内の水分の10〜15%を失うと病的状態になり、20%を失うと生命に危機が及ぶ。これまでの記録では最大18日間の絶対飢餓の末に死亡したイタリアの政治犯の記録が最長の断水記録らしいが、通常は水なしだと一週間もしないで死にいたる。ではこのように人体にとって重要な「水」はわれわれの人体において実際にどのような役割を果たしているのであろうか。飛田 美穂著『水とからだ』(P10〜11)によると

1、溶媒作用

からだの中の科学反応はすべて水に溶け、初めて進行する。すなわち、水は反応溶媒としてとても重要である。

2、運搬作用

水はからだの中での移動、細胞内外の移動をつかさどり、栄養素やホルモンの運搬、老廃物の排泄を行う。

3、体温保持・調節作用

 水の比熱は大きく、しかも大量に水分を含むからだは熱容量が大きいので、気温や室温が低下しても体温は下がりにくく、体温は一定に保たれやすくなっている。また、体温が高くなると、皮膚から汗をだして気化熱(蒸発熱)を奪わせて体温を下げさせる。さらに、水は熱伝導率が高いので、特定の臓器(場所)だけの温度上昇を防ぐ作用ももっている。

4、体液の酸・塩基平衡および浸透圧の調節作用水は電解質の溶解度を調節している。

 生体内の電解質物質をイオン化し緩衝化する作用がある。このほか、水には細胞の物理的状態の維持や粘性による体液の流れの調節も行い、また、タンパク質や他党分子などを水和してコロイド分子として均一に分散させる作用がある。

 

この他にも

融解熱が大きいので

・氷結しにくい → 凍傷、しもやけ、あかぎれになりにくい(熱伝導率も関係)・ せまいすき間の水はもっと氷結しにくい

表面張力が大きいので

・毛管による水の移動(高い樹木の頂きにまで至る):酸素、栄養の運搬・毛細管現象:身体の末端まで血液、体液を行き渡らせる。・付着力(水素結合):タンパク質とセルロースと核酸(DNA, RNA)と結合水の氷点は低い(-80 ℃)ので構造変化を防ぐ(変性しにくい)・酵素タンパク質が機能を発揮するためには、一定の立体構造を保持し、かつ、部分的にflexibleな構造がとれなければならない →タンパク質と水(結合水、弾力水、自由水)との総体で可能となる。

 など、水はその特殊さ(熱容量・熱伝導率・融解熱・蒸発熱・表面張力・融解能の大きさ)から人体において様々な役割を果たしている。以上のことから、「水」が人体にとって不可欠で重要な構成要素であることが明らかになったと思う。

 

まとめ;

 以上のようにみてくると、ミクロな視点からは「水」、特に液体としての「水」が、その特殊性から様々な役割を果たし、われわれの生命活動が支えられ、マクロな視点からは液体としての「水」がいかに限られた存在であるか、ということが理解されたと思う。日本語において「ありがたい」という言葉は、本々「有り難い」あるいは「在り難い」すなわち「存在することが極めて困難・まれである」というところからきている。その意味からしても、「水」はマクロ的な視野から見ればまさにその存在は希少という他にはないのであって、まさしく「ありがたい」のであり、決して何処にでもいくらでもあるといったようなものではないのである。

 このように水の希少さを宇宙的地球的に捉えたり、水の重要性を生物学的に捉えたりできるようになったのは、広い意味で科学の進歩のおかげであると言ってよいだろう。しかし、このわれわれにとって限りなく重要であり、かつわれわれに利用可能な量は非常に限られている水を汚し、われわれ自身にとって有害なものとしているのは、まさしくこの科学の進歩によってもたらされたわれわれの生活に他ならないのである。

 この意味で科学的探求の結果もたらされた、それまでわれわれが知ることのなかった世界観、物質観を科学の「光」の面とするなら、その反面科学によってもたらされた環境破壊・環境汚染は科学の「闇」の面であると言えるだろう。人間の活動は科学に限らず、根本的に「光」と「闇」の二面性を持ち合わせているもので、そのどちらかだけを消すことはできないし、取り出すこともできない。そうであれば、あるいはそうであるからこそ、われわれが目指すべきことは「闇」から目をそむけ、あたかも「闇」がないかのように振舞うのではなく、その「闇」を自らの行為の結果として責任をもって引き受け、「光」の面をつかって「闇」に対処していくことではないだろうか。

 

参考資料

中村 運/著 『生命にとって水とはなにか』講談社1995年7月20日・
佐藤 威/監修、飛田 美穂/著 『水とからだ』東海大学出版会
1997年9月20日・講義配布資料2000


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