June 19th,2000

  「水」 〜人ノ心ノ中デ〜

             041484 徳山 詩織

 

Wへ

 まずどこから話を始めようか? 最後に覚えているのは海で多量の水を飲んだ事。もがきながらさ、“ああ、オレ、溺れてるんだ”って冷静に思った。それから、“水死体になるのはゴメンだ。”って考えた。ほら、よく映画とかに出てくるだろ? 人間とは思えない程膨張してさ、皮膚なんかもぐちゃぐちゃで…。確認に来た家族もミジメだよな、あれじゃ。とにかく俺は気付いたら、こうして自宅のベッドの上にいたんだ。

 近所に川が流れてるんだけどさ、子供の頃よく、その湯日川でザリガニをとったんだ。中にはハサミが途中でもぎとれてるのもいてさ。それでも、自分を強く見せようと、残ってる関節を一生懸命振り回してるんだよな。心苦しくなって、逃がしちゃったよ。春になるとさ、田んぼに水がはられるだろ。そうするとカエルもおたまじゃくしも、名前も知らない小さな虫もみんな水を求めて集まってくるんだ。どんなに小さな生き物も、水がないと生きられないんだよ。でもさ、全ての生物が「きれいな」水を求めているわけじゃない。人間から見れば「汚く」見えても、別の生物にとっては住み心地がいい場合もあるんだよな。でもさ、洗剤とか油とか、生活排水とされるものは、どんな生物にも喜ばれない。人間は自然に歓迎されてないのかもしれないな。それでも俺は、川のほとりの草むらの中に座って、ひたすら川が流れる音を聞くのが好きなんだ。意味もなく。だけど、意味の無い事って必要だろ? 川だって、今自分が流れている意味なんてわかっちゃいないんだ。わからないけど、海まで行って、蒸発して雲になって雨を降らせ、知らず知らずのうちに多くの生命に貢献している。でもそれは水が決めたんじゃない。水は自然という大きな力に身を任せ、太古の昔から地上と天空をぐるぐる循環しているんだと、俺は思う。

 そういえばさ、地球のできた時から現在に至るまで、地球上の水の量は変わっていないらしよ。ってことは、今自分が飲んでる水は原始人が飲んだ水かもしれないし、もっと昔の、バクテリアが泳いだ水かもしれないんだよな。なんでそんな事が可能かっていえば、水は自分で自分を浄化するからだ。陸地から蒸発する時には濁っている水が、雨や雪になる頃には清水になっているんだってさ。いいよな、水は。自分で自分を純水にできるんだからな。

 大学退学処分だなんて、チャチなヤツだと思ってくれ。自分でも、どう考えていいかわからないんだからな。高校の先生にも悪いよな、これじゃ。オマエの周りにもいるだろ? 俺の事、優秀でスバラシイ先輩だと思ってる奴。悪いナ。イメージ崩しちゃって。でも俺は、本当の俺は、決してスバラシイ人間なんかじゃない。大学って所は様々な種類の人間がいて、高校の時には考えもしなかった世界が待ってるんだな。勿論俺より出来のいい奴もゴマンといる。もう俺は、ここでは優等生じゃいられないんだ。別にいいんだけどさ。高校の頃から思っていたから。「優等生」程カッコ悪い人種はいないと。世の中で一番カッコいい、或いは「天才」と呼ぶにふさわしい人間は、芥川みたいな作家だと俺は思う。そういえば奴も故郷の川を懐かしんでたな。作家のどこが天才的かと言うと、自分の悲しみをさ、文章にして多くの人間に共感してもらえるってコトなんだな。言葉ってのは難しいもので、俺にはうまく扱えない。言いかえれば才能がないってことだな。そこまで考えたらもうどうでも良くなってさ、あんな事して大学から追い出されてさ、俺にどこに行けってんだよな―? でも俺、自分のしてる事がどういう事か、よくわかってたつもりだよ。退学になっても、それが何だってんだ? それを話したら、「それ、虚無主義だな」って言った奴がいたよ。とにかく俺はどこに行ったらいいのかわからなくて、ただ海が見たいと、本気でそう思ったんだ。だから俺はとにかく歩いた。日本は島国だから、いつか必ず海に出られると思ってさ。今思えば幼稚な発想だけど、その時は真剣だった。それから、歩いていれば、どこにも帰らなくてすむと思った。家にも、東京にも。泣いてた様な気がするな。涙はしょっぱいものなんだって、久しぶりに実感したから。いや、誰も憎んでやしないよ。俺の周りの人間は、いい奴ばかりだったからな。ただ、純水になりたかっただけなんだ。

 「涙は、人間がつくる一番小さな海です」って言葉が、アンデルセンの「人魚姫」に出てくるだろ? 自分の涙の味は、海水と同じ様にしょっぱかった。いや実際は海水の方が塩分が濃い気はしたが、大切なのは俺が、その海に入った時、なんか本当に自然の一部になった気がしたんだな。さっきはさ、人間は自然に歓迎されていないって書いたけど、そんな、自分で自分の首しめてる悲しい生き物を、自然はどこかで笑って、また一方で優しく包み込んでる気がするんだ。キリスト教徒はその力を「神」と呼ぶかもしれない。俺はずっとその言葉に反抗してたから、今さら肯定するのもいやなんだけどさ、神なら神でいいや。ただ、人間の知能や技術を超えた存在がいるってことは確かだと思う。人間は自分達がより便利に、より快適に、より幸せになる様に科学技術を発展させて、それで水をはじめ地球を汚して、2006年には全世界が水不足とか言ってあわててるだろ? もしそれを、そんな愚かな事をさせたのも「神」だとしたら、人間が滅びるのも神が望んだ事じゃないか? 他の生物が滅亡するのも、「神の計画」の範疇なんじゃないか? その前に生き物を地球から消しておくっていうのも、恵みと言えば恵みと言えなくもないと思うんだ。

 ただ、それでも今、俺達は地球に存在する。それは俺が望んだ事ではないんだけど、あの夜、海の水を飲みながらもう一つ考えたのは、水が地球に存在するのと同じ様に、俺がここにいるのも必然なんじゃないかってこと。水はさ、地球でしか液体、固体、気体っていう状態変化ができないらしいよ。太陽に近い金星だと全部蒸発してしまい、逆に地球より太陽に遠い火星だと氷しか存在し得ない。太陽との距離が地球と同じ月ならいいかっていうと、そうでもなくて、月は液体の水を引きつけるだけの引力がないらしい。水は地球にしか存在し得ない。人間はその水がないと存在できない。だから人間も地球にしか存在し得ない。逆に言えば、地球でなら生きられるんだよな。地球でなら、生きてていいんだよな。だから大昔のバクテリアの時代から、水っていう特殊な物質を媒体にして、命を次の世代に受け渡していったんだ。特殊っていうのは自然界の中で他の物質とは性質が違うってコトなんだけどさ、これが人間や、その他の生物の体質と調和してるんだよな。化学物質的には、DNAとかも水からできているらしいよ。とにかく俺は水を見ていると落ちつくし、その水は4億年前に砂漠のトカゲが飲んだ水かもしれないと思うと、全ての命を包み込んだ水の優しさを実感するんだ。インドにさ、ガンジス川ってあるだろ? そこでみんな体を清めるんだけど、同時に死体なんかも流すんだ。焼いたばかりの死体を布でくるんでさ。生も死も同時に存在している。いつか俺もそんな風に、水に抱かれて天に行きたい。

 宗教科にさ、ギター弾きながら歌う先生いるだろ? いつも生徒に「一緒に歌いましょう」って言うんだけど、誰も歌わねえの。俺は高校ん時からキリスト教が嫌いでさ、だってどう考えても偽善者にしか見えねえ奴がゴロゴロいるからな、教会って所は。「オマエがそこで献金するのは貧しい人の為なんかじゃねえ。オマエの自己満足の為だ」って、俺なんかはすぐ思っちゃうわけさ。まァ、ひねくれてるって言われればそれまでだけどな。で、聖歌なんかも気持ち悪くなったわけだけど、「水のこころ」ってヤツあるだろ? あれは好きだったな。

 

水はつかめません
水はすくうのです
二つの手の中に
そっと大切に
水の心も 人の心も
水の心も 人の心も

 

 俺は今まで、つかもうとしてつかめないものを追い求めていた様な気がする。「すくう」って言葉は不思議だね。「救う」にも聞こえるね。

 水も、人の心も、自由に形を変えられるけれど、俺達の思い通りになるわけじゃない。そういうものを「すくう」ことが俺にできればと思う。

今夜もまた、田んぼのカエルの大合唱。

じゃあな。


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