NS。 Final Report
ある日の山下先生の講義
SS 041553 山下剛史
さて皆さん、これから私は水について述べようと思います。先ず質問があるのですが、貴方方は水をどう認識していますか?えっ、「無味、無臭、無色透明で、物理化学的に特に注目すべき特徴も無い。しかも、この地球上の何処にでもある最もありふれた物質」。そうですか、分かりました。貴方方の認識の一部は間違っていますが、一部は非常に的確だと思います。では、貴方方の間違っている認識から指摘していきたいと思います。
私が特に引っかかるのは「特に注目すべき特徴も無い」ということです。分かり易く身近な例からあげていきましょうか。私達日本人は米を主食としていますね。え、パンが主食?まあ、そういう人もいますね。でも、米を食べたことはあるでしょう。その米です。どうやって食べます?はい、炊きますね。水を使いますね。当然日本の水を使いますね。ヨーロッパで米を炊いたらどうなるか知っていますか?ああ、ヨーロッパの水でです。分からない?少し違うんじゃないか?実は全く違います。個人差はあるでしょうが、少なくとも、私はヨーロッパの水で炊いたような米は食べたくないです。なぜこんなことが起こるのでしょうか。はい、原因は水の硬さです。日本の水は大半が軟水ですが、ヨーロッパのそれは硬水です。この水の硬さというのは、水の中のカルシウムとマグネシウムの合計量のことで、これが多いほど硬い水といわれます。水は全てが同一ではないのです。硬度による違いが最もはっきりとするのが、料理です。和食と洋食の根本的な差異というのは、その土地に存在する水でしょう。自分の水に適した料理法が作り出されるものです。水の違いは文化の違い、そう言っても過言ではないと思います。他にも水の不可思議な性質はたくさんあるのですが、挙げれば切りが無いので、ここでは省略させてもらいます。水に特徴が無いというのは大間違いなのですよ。
水がありふれた物質であるということ。私達にとっては当たり前のことです。ありふれていなければならないのです。水が無ければ人間は3日と生きていられません。ちなみに、食料が無く、水だけあるという状況なら10日ぐらいは生きられるそうです。古代ギリシアで「万物の根源は?」という問いに多くの人物がそれぞれの答えを出しました。原子を万物の根源としたデモクリトスが科学的には正解なのですが、哲学的、いや、哲学的というよりもむしろ人間が認識可能な領域においては万物の根源を水としたターレスの方が的を得ているのでは思うのです。そういえば私の大学時代の教授も同じ様な意見を持っていましてね。彼はキリスト教徒としての立場から、非常に面白い見解を聞かせてくれましたよ。ふと思うのですが、創世記のなかで、1日目に光が創られ、2日目に水が創られていますが、これは昔から人々が水を光に次ぐ重要なものと考えていた証拠ではないでしょうか。
ありふれた水は、我々の文化や社会形成にも大きな役割を果たしています。四大文明と総称される古代文明がありますが、これらは全て大河に沿ったものだったでしょう。いかに水と文化が関係していることかが分かるでしょう。
ところでヴェネツィアを知っていますか?水の都といわれる、あのヴェネツィアです。最近はよく水浸しになっていて、そのうち水没するのではなどといわれていますね。あれは、水位の上昇によるものなのか、水の循環がうまくいってないだけなのかよく分からないのですが、イタリア統一以前、ヴェネツィア共和国があったころはこういうことはめったに起こっていなかった様です。正式な役職名は知らないのですが、意訳すると「水の行政官」といった感じの仕事がありまして、今もあるのですけど、当時は就任式のときに市民の前に連れて行かれ、「この者の功績を褒め称えよ。それにふさわしい報酬を与えよ。しかし、この責任重い地位にふさわしくないとなったら、絞首刑に処せ!」との言葉を受ける、まことに物騒な就任式を行っていたのです。なぜここまで水に気を使うのか。ヴェネツィアはラグーン(潟:砂州、砂嘴、沿岸州などにより外洋から切り離された湖のこと)に存在します。それだけに、水は生活の一部であり、町の一部なのです。淡水は海水に比べて腐り易く、循環がきちんと行われないと水は死んでしまいます。水の死は町の死を意味します。この様に場所に町を作ったのは、外敵から身を守るため。只それだけのために、湖の中島にわざわざ町を作ったのです。水(川、海、湖)によって外敵から守られたというのは珍しい話ではないです。イギリスも、英仏海峡があったかからこそ、ナポレオンもヒトラーもその野望を断念せざるをえなかったのです。それに戦争でも渡河や上陸ほど困難の伴う作戦行動はそうそうありません。水は私達の生活を助けるばかりでなく守ってもくれるわけです。
水の映像はときに、神秘的な様相をしていると思いませんか?リュック・ベンソンの監督作品で、グラン・ブルーというものがあります。簡単に言うと潜水と恋の物語りなのですが、その海のシーンがとても美しいのです。いえ、美しいというより神秘的で、どうしてここまで神秘的な印象を受けるのだろうと、考えてしまいます。他の映像でも神秘的な印象を受けることは多々あります。只映像が美しいだけという次元ではない様に思えるのですよ。もしかすると、私達は無意識の中で、水がいかに奇跡的な物質であるかを理解しているのではないでしょうか。それゆえに、水に神秘を感じるのではないでしょうか。グラン・ブルーの場合は題材が母なる海だけに郷愁のようなものも感じているかもしれませんが。
私は思うのです。全ては水に始まりましたが、全ては水に終わるのではないかと。水は我々の行動を反映します。良いことも悪いことも。今、人間が水を汚染しつづけているのは誰の目にも明らかです。因果応報、仏教の言葉です、真を得ていると思いませんか。ありふれているからこそ、その真の価値に気付き難い水。失ってからその価値に気付いても手遅れというものです。水を守り、水と共にこれからも生きていかなければならないでしょう。私達の心がけ次第というところですかね。