「水が地球上にありふれている」

という独善を破る

ID#001204 駒林智裕

水が地球上にありふれている、という言明自体にはさほど誤りは無い。しかし、地球上に最もありふれている、ということが海河川や雲や氷河のみならず、生命体の体内にも大量に含まれていることを君たちは認識しているだろうか。例えば我々人間の体内に含まれている水はその体重の70%を占め、しかも水の補給なしにはヒトは一週間とその生命活動を続けられないという事実がある。君たちもどこかでこの数字を耳にしたことがあるかもしれない。しかし、ありふれていることとその性質の特異性が無いことを結び付けてしまうのは、あまりにも性急である。水という物質に臭いや味を感じないのはヒトという種に固有の特性であって、その理由はヒトの感覚器官が水の分子から特別な刺激を受けない仕組みになっているだけのことである。ヒトという種の持つの五感から得られた情報のみを頼りに物事を判断しているにすぎない。五感は人体にとって重要な機構であるが、それのみで得られる認識は非常に限定されたものとなり、君たちの場合は五感から得られた情報が全てであると独善的に判断しているのだ。水という物質の持つ特性のみならず、自然現象や宇宙の仕組みといった自然化学の分野はもちろん、経済活動や心理学といった所謂文系の領域の物事も、仕組みを理解するためには独善的判断をくだすことでその仕組みを矮小化して捉えて分かったつもりになっていては、そこからは何も得られないであろう。

無色透明な液体といえば水以外にもにもいろいろある。例えばアルコールなどがいい例だろう。しかしヒトは水さえあればアルコールが無くても生命活動を維持できるが、水なしでは生きられない。それどころか、アルコールは大量に摂取すると生命活動に障害をきたしてしまう。水の補給なしではヒトが生きられない、ということから、人体の中で水がどのように利用されているか、あるいは水でなければいけないのなら水に何か特徴があるからだ、という考えは出てこないだろうか。頭の片隅に少しでもこのような事が浮かぶのはすごく良いことだし、その思い付きをそのままに放っておくのは勿体無い。それは五感に基づいていない客観的な視点から物事を見ようとしている事であり、独善の領域から抜け出ようとする営みだからだ。

今回は着目している対象が水という化学物質であり、その物質の持つ特性が本当にありふれていて注目すべきものでないのか確かめるため、化学の観点から仕組みを見ていくことにする。

人体の生命維持活動と直接に結びつく水の特性として、水の持つ溶解力が挙げられる。これが生体活動に関係しているものとして、体液と細胞の中の組織がある。体液は体の全ての組織に対して必要な養分を運び、生体活動で生じた老廃物を一定個所に集めて、さらにその老廃物を排出する働きをする。細胞内の小器官は原形質という有機物を含む水溶液の中に漂っていて、体液によって運ばれてきた養分はその原形質を通って細胞内小器官に届けられる。ここで、溶媒が水でなければいけない理由を示す。溶質の性質は、水に溶けるものと石油のような有機溶媒に溶けるものの2種類に大別できる。そのうち、人体の生命活動に必要不可欠な金属イオンは、有機溶媒には溶けないので、人体が金属イオンを必要としないのでない限りは体液や細胞質は水に頼らざるを得ない。これがミクロの視点から見た水の特異性が顕われている一例である。

ではよりマクロな視点から、水の特性がヒトに及ぼした影響を見てみることにする。人類最初の宇宙飛行士画ガガーリンは「地球は青かった」といったが、その地球環境こそ、水の特性の賜物である。地球は絶対零度に近い宇宙空間に浮かぶ惑星である。宇宙は絶対零度に近いにもかかわらず地球上はそれよりも200度以上も高温なのは、地球が太陽からの放射熱を受けているからである。ところが地上には昼と夜があり、夜の半球は太陽からの放射熱を受けていない。そのため地表の温度は宇宙空間に逃げていくのである。昼と夜の温度差は沿岸部ではせいぜい20℃くらいであるが、それが月ではもっと差が激しい。何故地球の昼夜の寒暖差が穏やかであるかと言うと、それは水が熱を蓄えているからである。日中に太陽からの放射熱を水はその内部に蓄え、夜は宇宙空間に放熱して冷えていく大気に蓄えた熱を放出しているのである。

さらに、水は固体より液体のほうが重い、という珍しい特性を持つ。一般には固体のほうが液体より密度が大きいので、液体に固体が浮くということは起こらない。もし水も液体より固体のほうが重ければ、地球の極点で発生した氷が海底に堆積して、その氷によって蓄えられた極点の寒さはやがて地球を覆っていたであろう。

さらに、水の密度が一番高いのは融点ではなくそれより少し高い4℃である。このことから、水の一番重い状態は液体の水であることが分かる。そのため、極地のような寒冷状況下でも、水面近くは氷に覆われていたとしても海底部は液体のために水は流動性を持ち続けることができる。よって、赤道近辺で温められた水は海流となり極地へと移動し、極地の気温が大きく下がるのを食い止めているのだ。

これらの水の特徴から、地球の現在の気候は水の特徴によって維持されていると結論付けられる。この地球環境に適応したヒトは、水によって守られている気温の範囲から成る環境からは抜け出ることが出来ない。

また、普通の人間が送る日常生活の周りに水はあふれている。一杯のあたたかくておいしそうな紅茶があったとすると、その紅茶はあたたかい「紅茶の成分の水溶液」である。水は無味無臭なので、我々は紅茶の成分のみを楽しむことができる。しかし、紅茶の成分の持つおいしさをヒトの舌に運んでくれるのは、溶媒の水である。紅茶の葉を直接舐めてもあまりおいしくはないだろう。茶という植物がその細胞内に蓄えた成分を溶かし出してくれるのが、紅茶で水が果たす役割である。紅茶でなくとも、喉の渇きを潤すものは水や何らかの水溶液である。喉の渇きとは、人体が水を必要としているサインであり、誰もそのサインを無視することは出来ないのだ。

そして、人類の営みは水と密接に絡み合っている。歴史上の人の営みを見ても、古代文明が発達したのは大きな河川のそばであったし、近世までの間に都市が形成されていったのは大抵は河口や川の合流点であった。農作物は植物なので当然水なしでは育たない。発電所のタービンを回しているのは高温の水の蒸気である。それらの場面で水という物質が選択的に用いられているのは、ひとえにその化学的性質がその場面に適合するからである。

例え水が地球上にありふれていたとしても、注目すべき特徴がまったくないという風に考えるのは人間の五感を判断の中心に据える独善である。水は、人間の身の回りにおいて確かにありふれている。しかし、水は人間の生活の中でどのように用いられているか、人間のみならず生命体の組織内でどのような役割を持っているか、地球という惑星の環境とどのような関係があるか、さらにより視点を拡大して太陽系という宇宙の領域で水がどのように働いているか、それらを考えることは「ありふれている」という認識に基づく独善的思考から人間を脱却させ、思考者の人生をより実りのあるかけがえのないものとするだろう。

君たちの中には化学や物理といった自然科学の学問分野を毛嫌いする人がいるかもしれない。しかし、物事には物理的側面や化学的側面を追求することによらないと理解されないその物事の仕組みというのが存在する。物理や化学はそういった場合に物事の本質を探求するための手段として有益であろう。また、物理や化学では迫ることができない物事がある。例えばスポーツや芸術などの人の営みがそれにあたるだろう。そのような分野では、その分野本質追求のためにで受け入れられてきた手法をもちいるのも良い。ある領域に別の領域の考え方を持ち込んで考察してみるのも、物事を多角的に判断できて面白いだろう。大切なのは、五感から得られた情報から物事全てを独善的に判断するのを止めて、何かの対象に関心を持ちその対象について考えることである。

今回の「水」の問題が示唆するものは、自身の感覚的判断に頼って独善に陥ってしまうと物事の事象を感知することはできてもそこに自らの問いを打ち立てることができなくなってしまう、ということだろう。それをつきつめれば、いわば目に入れど見ず耳に入れど聞かずというような、無関心の態度にたどりつき、それはヒトの持つ「考える」という能力を活かしていないことになる。

考えようとしないあるいは考えることをやめた人間とはどういう存在であろうか。それは、少なくともその個人をそこまで育て上げてきた周囲の人間の思いを、無碍に踏みにじる行為に等しいのではないか。人類はその歴史の中で、自ら犯した過ちの記憶も含めて蓄えた知識や思想を後世に伝え残すことで現在に至っている。一人の個人がその一生の間に成し遂げられることはさほど大きくはないかもしれないが、同時代を生きた人の知識や記憶をつなげれば、それは人類全体にとっての大切な遺産となるだろう。人間の一生は、一回しかチャンスのない、かけがえのないものである。そのかけがえのない何物かを得られるやも知れない人生を、無関心という態度は、味気のないものに変えてしまうだろう。

人間としてこの世に生を受けた以上、自身の出来ることを全うしてその人生を有効に使うべきである。


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