「最大の価値ある水」

 - 中立.羊水.涙. -

ID:031239 松谷洋介

 

 「水は無味、無臭、無色透明で、物理・科学的に特に注目すべき特徴もない。しかも、ここの地球上のどこにでもある最もありふれた物質だ。」このように考える人は少なくないはずである。私は水に関する科学的知識が乏しいため、その方面からのアプローチはできないが、それでも水とは実に不思議でもあり、また魅力的でもあると考える。確かに水はどこにでもあるものではあるが、最もありふれているから注目すべきでないというのは、はたしてどうだろうか。ここでは、私個人の水に対する思いを述べてみたい。そしてそれを、通して高校生だけでなく、その他の人にも、水について、究極的に拡大して言えば、自分と言う人間について考える材料になればと願っている。

 まずは、同じように無味、無臭、無色透明であり、しかもありふれている空気、また光と比較してみる。空気は私達の周りに、常にかわることなく存在するありふれたものである。空気は無味、無臭(におうとしてもそれは酸素や窒素のにおいと言うより、気体に混ざっている物質のにおいである)であり、そして当然無色透明でもある。しかし、それなくしては人間は生きられず、そう言った意味に於いては非常に注目すべき、大切なものと言えよう。人間は無意識に、また本能的に呼吸をし、そうして生きている。無意識であるが故に、ありふれたものと考えてしまうのは致し方ないが、それは空気が常に必要であるから、いちいち意識しないでも呼吸ができるようになっているのである。決してありふれているから、どうでも良いものと言うわけではない。同様に、光の存在も意識することはほとんどない。具体的に、光がないと人間にどのような影響があるのかは定かではないが、とにかく人間は生きていく上で光無しの暗闇では生きられない。

 このように、人間にとって必要不可欠であるが故にありふれている空気と光は、無味、無臭、無色透明である点に於いては、水と共通している。しかし、同じようにありふれていても、私は水の方がより人間にとっては重要に思える。というのも、空気と光は、不可視、不可触であるのに対して、水は見ることも触ることもできるからである。不可視、不可触であるものは確かに注目したくても、なかなかできるものではないが、水はそうではないのだから、むしろ注目すべきである。

 また、水だけでなく、空気も光も、無味、無臭、無色透明であるのは実は深い理由があると私は考える。「無」と言う言葉はマイナスのニュアンスではあるが、これは言い換えれば「中立」と言える。もし水や空気、光がある特定の味、におい、また色を持っていたらどうなっていただろう。ある人は、それらを好むかも知れないが、ある人は嫌うかも知れない。つまり特定の味やにおい、色は、水、空気、光を万人向けでなくするのである。

しかし、実際にはそれらは「中立」であり、中立であるが故に万人向きであると言えよう。誰にでも必要なものは、ある人にだけ好まれるような性質を持っていてはならず、絶対に「中立」でなければならないのである。

 ここまでは水の中立性の故の当たり前さについて言及してきた。ある人は水に注目するようになったかも知れないが、今度は水の魅力について触れたい。これは決して私だけではないと思うのだが、水を見ると、特に川や海、また湖の水を見る時、なぜか心が落ち着いたり、時には心が浮き立つようなことがある。そのような理由の一つとしてよく言われることは、生命は太古に於いて、水より(海より)生まれたからだと言う。それはそれで、なるほどと思う。確かに人類としての生命の誕生を辿ればそう言うことも言えるだろうが、一人の人間としてこの世にうまれてきた生命の誕生を辿る時、人間が水にひかれる別の理由が見出せる。

 人間はだれしもが、母親の胎内から生まれてくる。周知の通り胎内にいる時には、その小さな生命は羊水と言う水に囲まれ、言い換えれば、守られている。人類としての生命も確かに水の中からうまれたのだろうが、人間としての生命もまた、母親の胎内の水の中からうまれたのだ。これが、人間が水にひかれる、もう一つの理由ではないかと考える。天才的な音楽家であったモーツアルトは子供の時に、一度も聞いたことのないはずの曲を楽譜も見ずに弾いていたと言う。実は、これは胎内にいる時に母親が聞いていた曲を無意識に聞いており、そのためだと言われている。つまり人間の最初の記憶は胎内にいる時から始まっていると言うのだ。これを踏まえて考える時に、人間が胎内の水の中から生まれたが故に、水に魅力を感じると言うのも納得が行くのではないだろうか。

 この地球上に於いて水は、マクロ的には海や川として、また水道水やその他、様々な状態で存在する。一方ミクロ的には、人間の体内の血液、尿、または汗としても存在する。

このミクロ的な水は、人間誰しもが生命維持のための新陳代謝として、いわば生物学的本能として作用するものである。しかし、生命維持とは関係はないのだが、人間誰しもが持つ「水」を、多くの人は見落としがちだ。それは「涙」である。そこで次には、この涙について触れてみたい。

 人間は、様々な状況下に於いて涙を流す。(物理的な痛みにともなう涙と言うのもあるが、ここでは感情によるいわば精神的、心理的な影響による涙を重視したい。)嬉しい時、悲しい時、苦しい時、くやしい時、悔やむ時など、人それぞれ違うだろうが、人生に於いて泣いたことのない人は少ないのではないだろうか。いずれにしても、よく言われるように涙を流した後には、何故か生まれ変わったような、清清しい気持ちになれる。涙は精神的カタルシスなのだ。

 このように、様々な涙があるが、最大の価値ある涙とは何であろうか。確かにそれぞれの状況における涙は、それぞれに価値はあると思うが、私はそれらすべての感情を含む涙こそが最高であると考える。では、すべての感情を含む涙とはいかなる時に流す涙なのか、と言うことになる。それは、すべてを超越した絶対者、神の前に自分が立った時だ。これもまた非常に個人的なことではあるが、同時にそれは誰にでもこれから先、可能性のあることだと思う。

 私は他の人と同様にこの世に生きており、生きている上で、名誉欲や、金銭欲など様々の欲求を抱えている。このことは、多かれ少なかれ誰もが同じであると思うのだが、私はこのような欲を持ちながらも、それを全面的に、また完全には肯定できない時がある。絶対者である神の前に立つ時、そのような欲の故に、自己中心や傲慢になり、他人を傷つけたりしている自分に気付くかされるのである。神と人との前に正しく生きようとしても、そうできない弱い罪人である自分を、強く認識させられるのである。そして自分の弱さを悲しみ、また他人を傷つけたことを悔い、そのような中から抜けだせない自分を責めて苦しむ。このような時に自然と涙が溢れてくる。しかし、その涙は、苦しみや悲しみの涙だけではなく、喜びの涙でもあるのだ。というのも、苦しみや悲しみと同時に、このような弱い罪人である自分のようなものでも、神様は許して、生かしてくだっさているのだと言う思いが心のそこから湧いてくるからである。私はこのように、神の前には小さいが、それにもかかわらず生かされていると思う時に、涙が止めどなく流れ出てくる。悲しみや苦しみと共に喜びが合わさった涙。これこそが最大の価値ある涙であると考える。聖書を読んだことのある人は知っているかも知れないが、キリスト教を迫害していたサウロが天からの光とともにイエスの声を聞き、目をあけると何も見えなかったという話が、新約聖書の使徒行伝という書物に書いてある。そして、サウロが改心をした時に「たちまち目からうろこのようなものが落ちた」と言うのだが、私はこの「うろこ」とは、先ほどの「最大の価値ある涙」ではないかと思えて仕方がない。

 私は個人的な体験をもとに涙について書いたが、サウロの例をとったのはつまりは、今はまだ分からないが、人はだれしもサウロのようになる可能性があると言うことである。

 水について考える時に、もちろん科学的なアプローチがあるのは間違いはない。しかし、あくまでもそのように考える主体は人間であるのだから、まずは人間とはいかなる存在かということを問うのが第一であると思う。私はその問いの答えを「最大の価値ある涙」に見い出したのであり、その「涙」を出発にして、水を探究するのである。

 何もこの考え方を、高校生や他の人に押し付ける気はないが、このことをきっかけに、自分という人間を、そしてその次に水なりなんなり探究してみてはどうだろうか。


▲レポート一覧に戻る

▲元(講義資料)へ戻る