滝野 暢子
人間にとってもっとも身近な液体は「水」である。地球表面の3分の2程度を覆い、その中で生命は誕生し、進化を遂げてきた。水なしに生命は生きられない。水は我々生物の周り至る所にある。海、川、雲、雨、土中、空気中だけではなく体内にもたくさんの水が様々な形で存在している。しかし、どこにでもあるからといって、注目すべき特徴のないありふれた物質だという訳ではない。水には実に多くの特異性があるのだ。そしてその水の特異性によって、我々生物は生存することが出来ているのである。
第一に、水は通常の物質と異なり、液体から固体になると密度が小さくなる。これは、氷が水に浮くということを示している。氷が水に浮くのは当たり前だと思う人がいるかもしれない。しかし一般的に、液体よりも固体の密度が小さくなる物質は非常にめずらしい。多くの物質は固体になると密度は大きくなるのだ。そしてこの水の特異性によって生物は誕生することが出来たのである。なぜならもしも水が普通の物質と同様固体になったときに密度が大きくなるとしたら、冬、表面でできる氷は底に沈んでゆき、表面に残された最後の水が凍るときには水中の生き物もすべて凍死してしまうということを意味する。これでは海中での生物の進化など、とても起こりえなかったに違いない。
第二に、水の比熱は非常に大きい。つまり、水は温まりにくく、冷めにくい液体であるということだ。水は大気を構成する分子のなかで、常温で液体になる唯一の物質である。1グラムの水の温度を1度だけ上げるのに必要な熱量(比熱)は1カロリーであるが、これはあらゆる物質中で最も大きいものだ。また氷を融かすにも1グラム当たり80カロリーという大きな熱量(融解熱)を必要とし、水を発熱させるには1グラム当たり536カロリーという、これまた例外的に大きな熱量(蒸発熱)を必要とする。蒸発熱が大きいために熱を加えてもなかなか蒸発しない。実際、水は同程度の分子量をもつ液体の中では飛び抜けて高い沸点をもっている。水の状態変化に大きな熱量を必要とするということは、水が大きな蓄熱装置として働くことを意味している。水の比熱が大きいという特異性は地球の気候の温暖化とその安定化をもたらし、さらに生命体の機能を維持するために必要な微妙な体温調節を可能にしているのだ。
第三に、水の溶解能は非常に高い。つまり、水は多くの物質を溶かすことができる。塩のようなイオン性の物質も有機物も、量の大小はあれ、溶かすことができる。水ほど多くの物質を溶かすことの出来る液体(溶媒)は他になく、とくに無機化合物をイオンに分解して溶かす力は抜群である。水はまた結晶水や水酸基の形で他の結晶や鉱物と結合することもできる。これはかなり安定していて、結晶水は200℃位、水酸基になったものは600℃位に加熱しないと分解しない。この特異性により、海には生物にとって必要な多くの栄養が溶け込み、生物は誕生することが出来た。さらに、体内に取り込まれた栄養が吸収される過程でも、水の溶解能の高さは必要とされる。吸収された栄養は、血液や体液に溶け、体中に運搬される。体の末端にまで栄養が行き渡っているのも、水の特異性のおかげなのである。
水は、もっともありふれた物質のひとつで、地球上に広く分布している。しかし、上で述べた例のように、他の物質と比べると水は多くの特異性がある。普遍性と特異性をもっている水があらゆる生命の存在を支えており、また、現在の地球そのものも水によりもたらされたといってもよいだろう。水が余りにも身近にありすぎるがため普通であると思っている水の様々な性質が、きわめて変わっていることを知っているのは、水について学んだ人だけかもしれない。これまで水に関する数多くの研究がなされ、その性質や液体構造も次第に明らかになってきた。それにも関わらず、分子レベルでの水のふるまいについては、いまだ多くの謎が残されているのである。
負の電荷を帯びた赤い酸素原子と正の電荷を帯びた白い水素原子が非対称に結合しているために、水分子は電気的な偏り(極性)をもつ。