Christian Chemist・Robert Boyleについて |
吉野輝雄
「Christian Chemistの例を挙げて下さい」と言われ、ウッと詰まってしまった。少し考えて
「懐疑的な化学者」(1661)という本を著し、「人間には自然を治める責任があり、それに忠実に取り組むことが神に応える信仰行為だ」と述べたイギリス
のRobert Boyleの名前が思い浮かんだ。ボイルについては本論で述べることにして、
まず、化学の基本命題(物質の本質は何か?)に強い関心をもったサイエンティストについて考えてみよう。
まず、古代ギリシャの自然哲学者ターレス(BC
600)は、「万物の根源は水である」と唱え、自然の本質を知りたいという人間の営みの元祖となった。その後、デモクリトス(BC
400)は、万物はそれ以上細分化できないatom「原子」と「空間」からなると主張したが、当時の有力な哲学者アリストテレス(BC350)の四元素説
(万物は、空気、水、土、火から成る)の前から退けられてしまった。それから1700年後にボイルが、実験的にそれ以上分解できないものを「微粒子」とす
る概念を発表し、デモクリトスの原子説復活の兆しが見られたが、それから100年後、ダルトン(1803)が近代原子論として復活させるまで、科学の歴史
の陰に隠される運命をたどった。
ここで思わされるのは、人間は究極への関心を持ちながら、なぜ自然の真理にたどり着くまでに長い時間がかったのだろうかということだ。 ここに人間の考え(思想)=自然認識と真の自然の姿との間にギャップがあることを知らされる。このギャップを埋めるための方法を人間はどのように獲得して 来たのだろうか?それを知るには、自然科学が確立されるまでの歴史をたどることが必要だ。そして、自然科学の基本的考え方(方法論)とは何かを学ぶこと だ。一方、天地を創造した神を知っている(信じている)クリスチャンといえども、自然の真実が分かっているわけではない。神への信仰と自然を知る営みであ る自然科学との関係を認識することが、現代における科学と宗教(信仰)との正しい関係を知ることになる、と私は考える。
さて、ボイルが「懐疑的化学者Sceptical Chemist」(1661)の中で主張したことは何だったのか?
彼は、4つの点で、当時としては革命的な考え方を提唱した。すなわち、
1)化学の目的
「それまでの化学(Chemistry)の根本的な禍は,自己の利益のみを追求した点にある。真理は真理のために追求されねばならない」「化学者は今日ま
で金属の製造や金属の転換,医薬の製造などの仕事を専らやってきた。しかし,私は,化学を(天文学/コペルニクス(1500),力学/ニュートン
(1642-1727)のごとく)自然科学の学問とするための計画を立てた。私のこの計画は実験と観察によって実現できるであろうと信ずる。」→化学を実
用学からアカデミズム(自然科学としての化学)の対象とした。
2)科学(学問)の方法論: 帰納的方法論(induction)を提唱した。 「人が科学の進歩を目指すならば,実験をなし観察を行うことに全力を注ぐべきであって,いかなる理論も,それと関連するすべての現象を予め検討することな しには立てないことである」。→経験哲学者F.ベーコン(1620)や「方法序説」を書いたデカルト(1640)の影響を受けながら、現代の自然科学が基 礎としている考え方(方法論)を明確に主張している。
3)物質観:
「もしもある物質がもはやそれ以上簡単な成分に分解されないならば,それが元素である。」「物質の究極(→元素)は,性質(アリストテレスがあげた4つの
基本性質・冷温乾湿)の中にではなく,物質それ自身の中に探すべきである」。→1700年間信奉され、錬金術を支える理論となっていたアリストテレスの四
元素説を批判した自然観である。
4) 粒子説: 「万物は唯一の実体たる普遍物質(微粒子)から成る。原子はすべてこの微粒子から成り立っているが,元素が異なるに従って大きさ,形,重さが異なる。化学現象は粒子間の機械的作用によって起きる」。→デモクリトスの原子説を彷彿とさせる考えである。
ボイルは、それまで金を手に入れたいという欲望に繰られて錬金術に奔走した人間の営みを批判し、同時に、“錬金”を可能とする理論で あった四元素説(アリストテレス)やその亜流(パラケルスス(1530) やヘルモント(1600))を批判した。それは、自らの頭で考え疑うことをせず、伝来の自然観を盲信する旧い考え方(非経験的/演繹的思考)への批判で あった。まさに、ボイルはSceptical Chemist(真理を追求するために既存の考えや物事を疑う化学者)であった。<350年前にcritical thinkingを実行していた人間がここにいる。> 一方でボイルは、熱心なキリスト教信者であった。例えば、キリスト教宣教師の活動に多額の献金をして支援をしていたことが知られている。彼の信仰を示す 考え方がある。聖書の「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地に這うものすべてを支配させよ う。』」(創世記1:26)(関連箇所として、詩編8: 4 - 8)を科学者として真剣に受け止め、人間が自然を治め、動植物を管理する責任が神から与えられている、と考えていた。この思想は、近代西欧社会の自然観の 流れとなり、自然開発を正当化する考えとなった、と説明する人がある。人間も動植物も自然と一体であると考える伝統的な日本人の考えと明らかに異なる自然 観である。
このようにボイルは、神への信仰を持ち、それが支えとなって当時としては革命的な考え方を持ち、化学が自然科学となる道を開いたのだが、彼の熱い信仰と 自然観は違ったかたちで実際の自然科学は発展して行った。すなわち、ボイルの粒子論に立って登場した燃素(可燃物の含まれる微粒子・フロジストン)説や酸 (強い引力をもった微粒子)の本性に関する仮説などが次々と登場したが、これらが誤りであることは、ボイルの死後100年経った頃、近代化学の革命を成し 遂げたと言われるラボアジェ (1789)の実験によって正された。
ここで言いたいことは、科学者の持つ自然観と真の自然像とは必ずしも一致しない、ましてや、聖書に基づくキリスト教信仰者の自然観が、真の自然像と一致 しているとは限らないということである。換言すれば、自然は自然のままで存在し、人間は自然を自然科学という方法で見ているに過ぎず、信仰者はこの自然を 創造した神の存在を信じているだけで自然のしくみは分からないのだ。現代の科学者も、それまで築かれて来た自然観(科学)を背負いながら未知の自然へと向 かう。すなわち、科学者は、基本理念である観察と実験によって新たな自然像を描き出そうと活動(研究)する人間であるが故に、現代科学においても上記のよ うな不一致が起こりうる。ここに科学者が大自然の前で謙虚でなければならないことと、それでもなお、知性の全てを傾けて未知の自然に向かおうとする意欲の 源泉が、また、キリスト者であれば神が造られた神秘の自然の中で生きようとする思いの源泉がある、と私は考える。 (2009/11/6)
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