SISの発表: 「ドラッグ漬けの怠惰な生活」はなぜ良くないのか? |
吉野輝雄
ドラッグ(麻薬)をやることはなぜ良くないのか、という提起された問題について、
以下の問いの順に考えよう。
問1:麻薬(所持、使用、売買)を法律が厳しく禁じるのはなぜか?
問2:麻薬の使用は科学(医学)的に何が問題なのか?
問3:主な宗教で麻薬の使用を否定する理由は何か?
問4:麻薬を使用しない生き方を積極的に肯定する理由があるのか?
今、世間で話題になっているドラッグ問題にワルノリすることになるが、 SIS のクラ
スで化学のグループが取り上げたので、科学、宗教、人間の問題として少し考えてみた
い。
日本の麻薬取締法は、他の国と比べて厳しいと言われている。なぜか?麻薬が人間の
健全な精神を損ねることに対して日本国民が敏感だからか。暴力団の資金源となる道を
塞ぐためか。密輸入という暴利を狙う不法な商業活動を許さぬためか。判断力のない青
少年が常用すると、麻薬を買うためのお金を手に入れるために犯罪行為に走る危険性が
あるからか。どれも当たっているだろう。しかし、法律自体は人間の健康を守ってくれ
ないし、危ないと知りながら使用する自由を否定することはできない(だが、使用した
場合には、その責任を法的に負い、社会的制裁を受けることになる)。近代社会では、法
律の第一義は市民生活を護ることにあり、仮に市民が自由に選択できるとしても麻薬の
影響力を教えたり、健康障害を避けるための指針を与えるものではない。従って、法律
を基準にして麻薬使用の是非を議論しても、最終的な答えは得られない。
麻薬の種類によって作用のしかた、強弱、習慣性(依存性)の有無について差異があ
る(文献を調べれば分かる)。しかし、どこからが麻薬となり、どこまでが嗜好品なのだ
ろうか?法律的には麻薬に指定されている薬物リストができているので一目瞭然である。
では指定されていないものには麻薬作用がないのか?コーヒーは、精神を興奮させ、疲
れや痛みを忘れさせる作用があるが、麻薬ではない。酒も精神の緊張を解きほぐし、落
ち込んだ気持ちを発奮させる作用を持つ。両者とも法律では麻薬ではないが、使用限度
を弁えないと、麻薬と同様に“中毒”(習慣性)になる。モルフィン、ヘロイン、ヒロポ
ン(アンフェタミン)、マリファナなどは典型的な麻薬で、一時的にいわゆる酩酊、多幸
感をもたらし、使用を続けると幻覚や錯乱を引き起こし、やがて麻薬依存性の蟻地獄か
ら抜け出せなくなる。
これらの麻薬は脳内の神経伝達組織に作用する。多くの麻薬には痛みを鈍らせる作用
がある。そこで、激しい痛みを伴う末期ガン患者に、医師の管理下でモルフィンを使用
することが許されている。麻薬の医学利用の例であり、鎮痛作用以外の副作用のないモ
ルフィン類似の薬を開発する製薬会社が現存する理由である。
さて、科学者は、麻薬にはなぜ多幸感や痛みを鈍らせる“魔法の力”があるのか知り
たいと考え、研究を行って来た。詳しくは専門書にゆずるとして、麻薬の化学構造を見
るといくらか分かってくる。体内で生合成されるセロトニンは、モルヒン類と共通の構
造をもっている。すなわち、セロトニンが脳内の受容体に結合する代わりに、血中に入
った麻薬が脳内に流れついた麻薬が結合すると、セロトニンの作用と同じような作用が
引き起こすのだ。セロトニンが脳内で働くことによって、喜び、快楽、驚きなどの感情
をコントロールし、精神を安定させる作用がある。その作用量は微量で十分で、注射や
吸引によって外から一度に加えられると平常とは違った作用が現れる。量によって多幸
感や幻覚が起こされることがある。
一方、エンドルフィンというモルフィンの6.5倍の鎮痛作用をもつペプチドが人の体内
でつくられている。エンドルフィン分子の立体構造はモルフィンと重なる部分が多いこ
とから、モルフィンの鎮痛作用メカニズムが説明されている。エンドルフィンは、性行
為や長い間走り続けたり、泳ぎ続けると気分が高揚してくる時に分泌される、と言われ
ている。
なお、麻薬常用者の脳のMRI写真を見ると、一般の人と違って萎縮している事が分かっ
ている。麻薬により脳機能が退化することを示すデータであり、“魔薬”である証拠写真
と言える。
ここで短いまとめをすると、麻薬は、人間の運動、行為によって体内で作り出される
物質の代わりの作用をする外来化学物質である、と定義できる。その作用は、脳内物質
と似たところもあるが、強く出たり、常用すると本来の脳機能を損なうことになる。
1950年代にメキシコのマサテク族が、幻覚作用のあるマジックマッシュルームを用い
た宗教儀式を行っていたことが知られている。その村を訪れたフランス人菌学者は、ス
イスの化学者に抽出、構造決定を依頼し、合成にも成功している。構造はトリプタミン
系化合物で、セロトニンと非常によく似た構造をもっていた。なお、LSDも同様の構造と
作用をもつ物質で、オウム真理教がイニシエーション儀式で使ったと言われている。こ
のような特別な精神状態に変える作用をもつ物質(中には麻薬に指定されているものも
ある)が宗教儀式に使われている現実がある。
しかし、ここではキリスト教の立場から麻薬の是非について考えてみたい。麻薬、ア
ルコール中毒からの解放にキリスト教会や専門家が手を貸している事例が多くあること
から分かるように、キリスト教は麻薬使用に対して否定的である。しかし、聖書には麻
薬使用についての記事がないので、否定する根拠は、キリスト教の人間観、人間の生き
方を根拠にして考えることになる。因みに、カトリックでは2008年に麻薬を罪深い行為
と扱うと表明しているが、キリスト教の共通見解というわけではない。そこで、以下は
一キリスト者としての私見である。
麻薬は、脳の機能に強い作用を及ぼすため、一人の人間の判断力、行動、健康に大き
なマイナス作用をもたらすので、医学的使用以外の使用に、私は反対である。すなわち、
麻薬は社会人として善悪の判断力を弱め、その結果、隣人の人権、感情を軽んじる行動
を助長する可能性が大きい。社会の中で、自制、協働し、責任をもって生きていく人間
としての基本的要件を崩壊させる危険性が高いと言える。このような心身の健康に対す
る危険性の高い物質を使用する事と、結果として世予想される他の人々への影響は、キ
リスト教がめざす人間像、隣人愛の精神に反する。
麻薬によって得られる快楽は、神から与えられている能力と時間を使って達成すべき
喜びや満足とは異質である。生体内脳物質であるセロトニンは、自らの努力、隣人、異
性との愛の関係の結果として体内に生成されるもので、薬物という外来物質によって代
用する行為には必ず深い虚しさが残る。従って、神の望む行動ではない、と私は考える
(註1)一時的な疲れ、誰も関心を示してくれず助けの手をさしのべてくれない孤独
や絶望の中におかれ、麻薬に手を伸ばしてしまったという例をどう考えるか、と問う人
がいるかも知れない。私は、法律を守るためではなく、自分の意志とよき理解者の助け
を借り、できるだけ早く、浅瀬にいる間に常用を断ち切るべきだ、と言いたい。さもな
いと、どんどん深みにはまり、“虚無”の地獄に墜ちることになるからだ。
弱さを紛らわすために人間としての尊厳性を売り渡ししてはならない。もしも麻薬の
誘惑に負けた時には、早期に断つプログラム寺(支える人々が必ずいる)に駆け込み、
社会的に、人間的に自尊心をもった自分を取り戻すことが肝心だ。助けを求めることは
弱さではない。人の力よりも魔力は強いのだから。神は失敗を赦す。非を悔い、再び生
きようとする人に生きる力を与えるのが神だからだ。
(註1)
鬱病の人が回復のために薬を使うことについて:麻薬とは違う次元のことだが、薬物で
脳(精神)の病を治す点で、類似した行為とも考えられるので短い私見を述べる。カゼ
をひいた時にかぜ薬を飲むのと同様に、病気の回復を助けるために医師の処方で薬物を
飲むことに問題はない。鬱病の薬も同じだ。現実には、鬱病の人自身や家族が薬に頼る
ことを嫌うケースがあるようだが、周囲の人間が薬の使用に対して偏見を持たないこと
が鬱病の人の回復に協力することになることを知っておきたい。
大部分の社会人は、麻薬と関係のない生き方をしていると思う。そこで、大部分の人
にとっては、麻薬を所持、使用、売買に関わる人間は全く別世界の存在で、法によって
裁かれるべき人間と考えるだろう。関わる必要がなければ幸せであり、下手に関わると
危険であることも確かだ。しかし、社会の現実を見ると、無関心でいられない問題であ
ることに気づかされる。例えば、判断力が未熟な青少年が麻薬に曝されている事実があ
る。青少年を麻薬から遠ざけ、更正させる道は、麻薬取締法に任せておけばよいのか。
彼らに麻薬についての適正な知識と抜け出す社会的方法を示し指導するシステムが必要
ではないのか。まさか家族の一人や友人やアイドルが当事者にならないとも限りないと
考えると無関心でいてよいのか、と思うのだが…
本題(問4)に入る。問3でも述べたが、安易な快楽、精神高揚、芸術(創作)意欲
の力を薬物に求めることは問題である。私は、人間は生身の弱さ、限界を抱えながら自
他に対して誠実に生きるのが、人間の基本だと考えるので、薬物使用は反対なのだ。と
言っても、単に真面目な生き方(価値観)をせよと主張しているわけではない。人間は、
一人ひとり何らかの弱さをかかえていると思う。弱さを含めた自分を丸ごと受容するこ
とによって、人は、人間であることの安心と自信をもつことができ、そこから一歩づつ
前向きに考え歩き続けて行けるのではないか。やがて、その歩みが楽しくなり、自分と
違う隣人と向かい合い、対話し、できるだけ協力して行こうと思えるようになる。私は、
そのことを、小さな経験を通して(実は神との出会い=キリスト教信仰を通して)学ん
だ。
このような生き方には麻薬は不用だ。疲れた時には疲れた自分を労り、休憩をとり、
遊び(趣味)、旅行、友人との食事やおしゃべりなどで癒せばよい。もちろん仕事が大好
きな人は、仕事をしながら休めばよいし、仕事に熱中して得られる大きな満足と自信に
よって高い次元で休めばよい(これがプロの生き方だ)。結果として賞賛が与えられるか
も知れない。もちろん何事かを成し遂げた人は、成果と賞賛を素直に喜べばよい。
Max Weberが、Science (Life) as a Vocationと言った意味はこの辺にあったのではない
かと私は考える (Life は私の挿入)。 Vocationは、callingと同じで、「神からの呼びかけ
に応える営み」という意味である。辞書では天職と訳されている。従って、my Vocation
と言えば、Scienceの営みに一生をささげる、という意味になる。ついでに、この意味を
少し考えてみたい。それは、先入観に囚われず、“教師”の意見を鵜呑みにせず、一つ一
つの事実(事象)を自分の目と手足でしっかりと見つめ、何が本当なのかを自分の頭で
考え、それを自分の意見として公に表明する営みを生き方の基本として、一生涯続けて
いくこと、と私は理解する。言うまでももなく、向かい合う対象は人によって違ってよ
い。自然を対象にすれば自然科学者、人間社会を対象にすれば社会科学者となるが、ど
んな仕事、生活の中にもVocationはある。ScienceをLifeと置き換えた理由がここにある。
my life=私の生き方がScienceの営みを選択している、というのであれば、それは、神が
人に与えた理性を正しく用いる営み(vocation=response to His calling)を生きることだ。
と、私は、Max Weberの言葉を解釈する。
以上は、最近考えていることで、全くの私見です。Aging effect故に、独りよがりの考
え方かも知れません。寛い心で受け止め、率直な意見を聞かせて頂ければ幸いです。
(2009/10/30)
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