SIS DVD 「鶴見和子さんの生き方/回生」を観て 学生のコメントに対するコメント |
吉野輝雄
1.「このDVDとSISの主題との関連が分からなかった」というコメントが5,6人いました。「宗教と科学との関係を知りたいと期待し ていたが違っていた。」というコメントもありましたので、この DVDを見せることにした教員側の意図を説明したいと思います。 鶴見さんは、社会学者であって自然科学者ではない。しかし、実証と論理を基本とする学問に向かい合っていた方なので、広い意味で科学者と考えた。しかし、 突然の脳梗塞によって死と直面し、科学する国際人としての華々しい人生がストップさせられた。そこで、何を考えかを自然科学を学んでいる学生の皆さんに見 てほしかったのです。鶴見さんは、急転回した自分の気持ちを和歌として表現していた。例えば、自然の中に自分を見いだし、自然の気配を感じると話してい た。さらに、生死に真っ正面から向かい合った心の動きを体験として多く語っていた。それを、広い意味での宗教(信仰)と考え、科学することと生死の問題を 考える宗教を自分の問題として考える材料にしてほしかったのです。 ここで、注目してほしかったのは、既成宗教にとらわれることなく、自分の生き方の根本を問うことが宗教の本質であるという点です。
2.鶴見さんは、「私は宗教を信じていない、人間は自然の一部であり、自然との一体化をめざしているのは信仰だ」と言っていることに同意するという意見が 多かった。また、「人は自然の一部である」という鶴見さんの言葉を、頭では分かっているが、本当に分かっているかを考えさせられた、という人もいた。 自分と自分を取り巻く自然について、自然科学だけでなく、自分の生きる意味、生き方にまで掘り下げて考え抜くのが、この SISの目的だと教員の一人である私は考えているので、上のような反応を大事にしたいと思うと同時に、皆さんもその気づきを深めて行ってほしいと思ってい ます。
3. 身内の死や重い病気の体験をもっている人は、「死者の生き方」や「回生」という鶴見さんのことばに共感したと書いていました。生きるか死ぬかの瀬戸際に立 ち会わないと実感できないことがあるのかも知れない。宗教が、そのような限界においてだけ意味をもつとと考えるとしたら、それは違うと私は言いたい。宗教 はいつ来るか分からない死を抱えた我々一人ひとりの日常の生に関わるものと考えるからだ。
4.「次々と口から出てくる和歌を聞いて、鶴見さんの感性の素晴らしさに驚嘆した」。同感です。歌は、作りものであるが、真実を端的に表現する力がある素 晴らしい人間文化だと感じたものです。そして、文化を生み出す根源と育む力は何なのか、を私は考えさせられました。いわゆる文系の人が持ち合わせているこ のような能力と、自然科学をおもしろいと感じ研究に向かわせる力の間に人間の本質において関連があるのか、ないのかまで考えさせられました。この考えを広 げていくと、音楽や絵画に対する感性・能力の根源は?と取り止めがなくなってしまいますので止めますが、音楽、芸術と宗教とは深く関係していることは明ら かなので重要な問いだと思います。
5.若い頃と国際的な社会学者として活躍していた頃の自分のことを、「バカなことをしていた」と何度も言っていた。その理由が理解できない、という人が何 人かいました。 何をもって「バカなことをしていた」と言っているのかが分かれば理解できると思います。「休むことをせず講演会、論文書き(論争者への反論)に日々を過ご していた時に突然、脳梗塞に倒れ、初めて自分と自然に向き合えた」、「倒れることなく死んでいたかと思うと・・・」という言葉から、自然の一部として生き ている自分というものが分からずがむしゃらに働いていたことを「バカなことをしていた」と言っているのではないでしょうか? しかし、この言葉は、そのような後悔だけではないと思います。以前のように動けないのが悔しいという響きが感じられなかったからだ。「今の自分が好きだ。 私の心の中に閉じこめていた和歌を詠みたいという思いと感性が甦り(回生し)、限界がありながらも、私という生を丸ごと感じ、自然の気配を感じながら毎日 生きている(生かされている)から・・・」(言っておられたままではない)と言っているように思えたのです。つまり、今の方が本当の生(自分)を生きてい るのだ、とさえ言いたげではなかったか。本当のことが分かっていなかった若い頃の自分は、「バカなことをしていた」と。 (2009/9/26)
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