実験動物をかわいそうに思う感情について           

                                                  吉野輝雄

 

 麻酔をかけ、病巣を除くための解剖を行い、治療をして元に戻すことが前提の動物病院と違って、解剖後に死体として捨てることが予め計画されている動物実 験を行う者は、実験動物をどう思っているのか?が問われた。発表者は、「かわいそうに思うが、新しいこと/真理を知りたいという人間(私)には好奇心があ り、科学研究を行うために動物実験が必要だ」「人のために役立つ医薬品や、病気の治療法を開発するために止めるわけにいかない」といった主旨のことを言っ ていた(間違っていたら指摘下さい)。

 それに対して、ある受講生から「“かわいそう”という気持ちをもつのは、とてもゴウマンなことだと思う。人類の幸福のためには科学の発展が必要であり、 そのためには動物実験が必要である、よって動物を犠牲にしている、という論理構造に内包されて人間のゴウマンを意識し、それについて考える、悩む、悔いる 事が大事だと思う。」という批判があった。同様な意見として、「殺した動物がかわいそうと思い、感謝したとしても殺した事実は変わらない。感謝ではなく自 分はとてもむごい行為をしていると考えることが大事だと思う。感謝の気持ちは自己中心だ」というコメントが寄せられた。

 このような批判に、まず動物実験する人たちに答えて頂きたい。しかし、この問題は、実験者だけでなく、動物実験を容認している我々、その成果に浴してい る我々も答えなければならない。加えて言えば、人間の知的欲求と人間の健康をまもるための知識を得るために他の動物を犠牲にする行為をどう考えるか、に答 えることが一人ひとり求められている。それは、「生命」についての見解となるべきものとなるだろう。  私もこの問題を先週から考え続けている。まず動物の死を「かわいそう」と思う気持ちを持っているか反省してみた。今、動物実験に直接関与していないの で、幼少時の体験を思いつくままに思い出してみる:近くの田んぼでカエルを捕まえ、殺してザリガニ釣りの餌にして平気で楽しんでいた。また、sヘビが怖 かったので、道で出会うと、長い棒で叩いて半殺しにし、後で息を吹きかえすという迷信を信じ、臭いドクダミの葉を集めてかぶせておいた。フナやドジョウを 小川で捕って来ては、家の庭に自分で作った池で飼っていたが、餌もあげずに放って置いたので死んでしまった。それをただボンヤリと見ているだけだった。中 学時代に、カエルをエーテルで麻酔し、素早く手足をピンで止めて解剖した。一応、観察ノートをつけていたが、私の本心は、器用に腹を割ける自分の腕を自慢 したくて何匹ものカエルを殺した(今思い出したのだが、中学2年の国語の時間に「生まれ変わったら何になりたいか」という作文題が出され、私は、カエルの 足になりたい、と書いた。カエルの霊が書かせたのかも知れない…)。
 長く書きすぎたのでここでストップ。要するに、私の幼少期には、生き物は私の生活、遊び相手の一部であったのだ。かわいそうとも思わなかったし、生き物の命の重さも分からず、自分の命の尊さも分からなかった時期であった。

 大人になってからは、“殺生”をしていない。しかし、こんな経験がある。30年前アメリカ・シアトルのガン研究所で研究していた時、化学合成した糖脂質 の抗体をつくるためにウサギを使い、2週間ごとに採血していた。ある日、全採血した=殺したと、動物飼育係の人から聞かされた時に、「かわいそうなことを してしまった」と思った事を今でも思い出す。自分の家で飼っていたウサギではないが、私の研究とつながりのあった一匹のウサギの命をいただいて論文を書い たことを忘れてはならないと思っている。
 また、ウマの血液からヘマトシドという糖脂質を抽出するために、八王子の食肉処理センターに何度か行った。ウマは足を骨折したために殺され、肉は桜肉と して市場に出され、血液は捨てられる運命にあったのだが、予約しておいて戴いて来たのだ。20Lの血液を ICUに持ち帰って溶血させ、200Lの溶血液を夏休み2週間毎日実験をして、最後に貴重なヘマトシドを2g程度抽出・単離して研究に用いた(因みに、試 薬屋から買うと1mg 3万円)。それはさておき、食肉処理場で牛や豚の体の肉が大量に上から吊り下げられていた姿を見たときに、家畜を殺して肉として食する人間の業を見た思い であった。しかし、それは日常の出来事であり、社会の中の産業となっている事だと考え、痛みを感じることはなかった。家畜は農家によって大事に育てられ、 やがて出荷され、食肉処理場で免許を持った人によってきちんさばかれ、衛生管理をした上で市場に出されているのだ。家畜については、今もその時の考えと思 いは変わらない。  このようなことを書き連ねても、はじめの問いの答えに正面から近づくことがなかなかできないので、私の意見を絞ることにする。

 私がこの問題を考える出発点は、動物実験にしろ、食肉となる動物にしろ、人間によって殺される動物と人間(私)とがどのような関係にあるのかを問い、認 識するところにあると考えている。例えば、長い間ペットとして家族のように可愛がっていた犬が、突然、実験動物として連れていかれたら、かわいそうと思う 以上に、激しく怒り、心裂かれる思いになるだろう。実際の関係の深さと感情とが密接な関係にあることがすぐに分かる例だ。  一方、実験動物として育てられた動物たちの場合には、動物同士も、動物と飼育係とも気持ちの通う関係には(多分)ないだろう。飼育箱で管理人によって育 てられた動物は、研究目的に従って実験に用いられ、命をなくす運命にある。ここには、かわいそうという気持ちが入る余地がない(と私は考える)。しかし、 一匹(以上)の動物の命が失われることは厳然とした事実である。人間の場合には、命ある故に生きる中で喜怒哀楽を感じる出来事がある。そして、研究できる 機会に恵まれた人が、目の前の命に対して全く無感覚であってよいのか?かわいそうという感情を口や顔で表してもどうにもならない。研究のためと、自分の やっている事を簡単に正当化するのではなく、命あるものを扱っているという重さを感じているのかということだ。重く感じているのであれば、まず明確な研究 計画の中に実験動物の使用(必要性)を位置づけ、解剖や薬物投与の際にも十分な知識と磨かれた技術と緊張をもって動物と向かい合い、実験終了後は命あるも のが死体となったことを覚えて、ていねいに後処理をすべきだ。そして、研究結果をしっかりとした科学論文として発表し、成果を公のものとして提供すること が研究者の責任であり、死んだ動物への“供養”である、と私は考える。   (2009/10/21)


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