福田誠二先生の「“神の存在証明”における信仰と理性と真理」を聴いて             

                                  吉野輝雄  


 神の存在証明に高い知性のすべてをかけ、真っ正面から取り組んだ偉人が何人もいたという事が私には驚き
であった。青年時代にアウグスチヌスの「告白録」を読みかじったが、彼の信仰の本質を理解することはでき
なかった。福田先生は、神の啓示(聖書)に頼らず神の存在を証明しようとした5人の“証明論”を紹介して下
さった。要約されたそれぞれの「神観」に私は概ね共感できた。共感した理由を考えてみた。

i) 当時は、その独創的な考えが神の存在を論じていた人々に大きなインパクトを与え、反対する論者も現れた
と思われるが、800 年以上の年月を経て、神学思想として西洋の思想(とりわけキリスト教思想)に取り込れ、
我々現代のキリスト者がもっている神理解の一部になっているので素直に共感できたのだと思った。

ii) もっと広い視野に立って言えば、時代の試練によって色あせることのない人間の本質が述べられていたから
だ。現代人である我々は、歴史の中で深められた人間理解、自然理解をもち、民主的な社会の中で一人ひとり
が人格と尊厳性を持った存在として教育を受けて来た。そのような立場から14世紀以前に生きた5人の偉人
の考えを見直してみると、神と人間の関係における普遍性(真理)が述べられていることが分かり、感動さ
せられる。

 ここで時代と思想について少し考察したい。アンセルムス(1109 年没)、トマス・アクイナス(1274)
スコトウス(1308)、アウグスチヌス(430)の時代は、自然科学が確立した17 世紀以前である。つまり、
F.ベーコン(1627)の経験哲学が基礎となり、ガリレオ(天文学,1642)、ニュートン(力学,1727)、
ボイル(化学,1867)といった自然科学の祖に引き継がれていった自然科学の成立以前の考えと言える。
事実の観察・実験による実証過程を経て法則(真理)を追求する=帰納的方法論を主軸とするのが自然科学
であるが、5 人の神学者の神の存在証明は、まず神がいるという大前提をおき、いかにしたら証明され
るかを追求する=演繹的方法論であった。数学のように公理を置いた上で「証明」するのに似ている。
しかし、現代の科学的証明は帰納法によるものとされるので、冒頭の命題は、「自然科学によって神の存在
を証明することができるか」と言い換える必要がある。
科学と科学技術が発達した21 世紀の人々にとっては、神の存在は遠いものになっている、あるいは、必要
を全く感じることなく人間らしい人生を送ることができる、と考えている人が多いのではないか。

そこで問題を整理すると、
1)自然科学(帰納的方法論)によって神の存在を証明することができるか?


2)自然科学・科学技術のの発達により神への信仰は意味を持たなくなるのか?
の2点になる。皆さん一人ひとりが自分の問題として考えて頂きたい。

以下は、私見である。

1)についての結論を先に言うと、「証明できない」と私は考えている。また、「証明を求めることを止
めると神と出会うことができる」と信じている。
「証明できない」という点については、すでに配布物の中で度々書いているが、要約すると、科学が解き
明かす真理は常に相対真理であり、絶対真理である(神の存在が証明された)ということは科学の自殺行
為と考えるからだ<少々、過激な言い方をしているが、科学の基本と限界を否定することと言い換えても
よい>。ここでも誤解ないように言っておくが、科学を否定しているわけではない。科学は理知能力をも
った人間の尊い行為であり、どれだけ未知のものが残されている分からない自然界を観察と実験という
人間行為によって解き明かす終わりのない営みである。既知は遺産(科学的知識)として書き残こすこと
ができるが、未知は無限に存在すると考えるのが、謙虚な(自然科学の立場を重んじる)人の考え方では
ないか。このような所に立つ時、人間の好奇心、探求心が全開すると、私は考えている。科学大好き人間
がここから生まれると言いたい。

(いつものクセだが)議論が少しズレて来てしまった。「証明できない」と考えるもう一つの理由がある
(こちらの方が本質的だと私は考えている)。証明するという行為は、人間が理性を持ち、“違い”を判断
できるので成り立つ。ここでの“違い”は正と偽、距離、時間の差、自己と他、極限は有と無の違いといっ
た本質的違いを認識できるのは、それらの違いを創造した神の業とするならば、天才が神の存在を証明し
たといっても結局人間の理性の限りにおける認識を超えることができない、と考えるからだ。不確定
原理を発見した物理学者はこの問いの前に人間の限界を知り、人間を超えた存在に思いをはせたのでは
ないか。
そこで、人間は神の存在証明に情熱を燃やすことをしない方がよい、それよりも神が造られた自然
(神の業)を知ることに情熱を傾けることの方が、自然の一部として造られた人間にふさわしい、と
私は考えている。
人間が神の存在を証明したいと思う理由はどこから来るのを、次に考えてみたい。

 天地を創り、正義と愛と生命の源である神をすべての人が知り、救われて意味のある人生を送って
ほしいと心底から願い、その道筋を示したいからという理由が、一つ考えられる。先に紹介された偉
人たちはその例であろう。他方、「神の存在が証明されれば神を信じるが、証明できないならば、私
は宗教と無縁な人生を送りたい。証明してみせてほしい。」と考えている人もいるのではないか。
要は、「証拠がなければ信じない」という“科学的”態度である。

 実は、私もその一人であった。しかし、ある時に、この考え方の根底には傲慢さと自己中心性が潜
んでいることに気づかされた。傲慢さとは、知っても知っても疑う知性をかかえた人間は、最後には
神にならなければ、この問いを止めないことが分かったのだ。私が神になることをめざす生き方は神
との正しい関係ではないと思った。私は神に命を与えられて限りある人生を生きている者であり、
「主なる神」が、人間の知性と能力では計り知れない無限の富の中から分け与えて下さっているもの
(自然)と向き合って生きていくことが人間のであると思い至った(これを、私は、「神を畏れるこ
とは自然科学のはじめである」と言って来た)。自己中心性とは、自分が知り得ないもの、知らない
ものの存在は認めないという生き方だ。説明を加える代わりに、問いを出そう。人間関係において、
相手のことを理解できないからと言って、相手と関係を持とうとせず、存在を認めないという人がい
たとしたらどう思うか?人間として変ではないか。人間関係でも、まず相手の存在を受け入れ、良い
関係を築こうとするのが人間らしい人間ではないか。神との関係でも同じで、まず神の存在を受け入
れるところから神との関係が始まり、神に知られている自分を発見すると、私は40 年余のキリスト
教信仰体験から知らされている。

私の結論をまとめると、
1)神の存在証明に知性と生命をかけた昔の偉人の生き方と考え方には、時代を超えた普遍性があり
心から尊敬できる。
2)現代科学の考え方が一般に定着し、一人ひとりの人間の尊厳性と自由な生き方が認められる現代
社会では、神の存在を証明しようとする試みは、かえって神との正しい関係から外れることがある。
現代社会にふさわしい神信仰を、現代人のことばで表現することが宗教者(思想家)の課題である。
3)神の存在は証明するものではなく、信じ、神との関係に生きることである。この道は万人に開か
れている。そこで、私も自分の意志でその道を求め、選び、すでに神との関係に入っている人のガイ
ドと祈りの支えによって見えざる神との関係に入ることができた。その道は、子どもでも無学なもの
でも通ることができる道である。そのことは、そのつもりで周囲を見渡すか、キリスト教会に行けば
数多く見つけることができる。

 しかし、どうしたことか、現実を見渡すと、人よりも学があり、権力があり、家筋が良く、財力が
ある人にはその道が見えにくいのか、あるいは、見えても魅力を感じないのか入って行く人が少ない
ようだ。聖書は、「狭い門から入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからは
いっていく者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者は少ない」
(マタイ 7:13-14)と言っているが、神との関係に入ることがある人にとって神の存在証明よりも難し
いのかも知れない。                    (2009年10月14日 )

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