「知らないことがあることは楽しい」と言える人間でありたい

 ICU 学生YMCA 会にて                     2010 年1 月21 日                      
        

                             吉野輝雄


1. 福山雅治「ガリレオ」の台詞:「こんな不思議なことがどうして起きるのか。
わからない。これだからサイエンスは楽しい!」(筆者の意訳)


2.サイエンスは、分からないことに向かう営みだ。

 サイエンスが発達し、宇宙の起源、生命のしくみ、原子・分子の構造、性質が次々に
解明されている。また、そうした科学の知識を使って新しい機能をもった物質や医薬品
が合成され、病気のしくみを理解した上で診断、治療に役立っている。また月への旅行
も可能な時代になっている。どれもサイエンスの成果だ。サイエンスで何でも分かるよ
うな気がしませんか?人間の未来はサイエンスにかかっていると考えている人がいませ
んか?でも、理科の教科書を見ると難しい式や説明が山ほど書かれていて、ついて行け
ないという体験を持った人は、「私は理系向きの人間ではない」とサイエンスを楽しむ生
活など諦めていませんか?

 サイエンスは誰のものか?サイエンスの原点は何か?
 実は、サイエンスは自然についての知識を学ぶことでも、知識を蓄積することでもない
(その作業は必要であるが目的ではない)。サイエンスは、未知のことに向かう営み(考
え方であり行為)である。その意味でサイエンスは万民のものである。自然には未知の
ことがどれほど残されているのか?それは人間には分からない。どんなにサイエンスで
解明しても解明し尽くすことができない、と科学は答える。なぜならば、科学で解明さ
れたことは限りなく確かな真理であっても絶対真理ではなく相対真理だからである。

  考えてみると、自然だけでなく人間も社会も分かっているようでまだ分からないことだら
けだ。そう思わないか?思わないという人は、固定観念にとらわれている可能性がある。
自然も人間も人間集団である社会も常にダイナミックに変化しているもので、固定した
理解を受け付けない。人間は、過去の歴史に学ばなければならないが、全く新しい事態
を抱え、絶えず変化している現代のただ中に生き、未知の未来の前に向かおうとしてい
る。この厳粛な事実を受けれないと人間の知性、感性は生き生きとダイナミックに働か
ない、と私は考えている。知りたい、分かりたいというのは人間の本能(本性)だが、
決して満たされることはない。不満か?否、楽しい。分からないことが未だ未だあると
いうことが分かり、自分の存在が小さいことが分かること、そして、自分の目と手足と
頭を使って知る営みを続けて行けることは、何と素晴らしいことではないか。私はそう
思っている。

 ここに「地球カレンダー」という簡単なクイズ(計算)がある。
「地球の年齢(46 億年)を1 年(365 日)とすると、人類発生(200 万年前)、現代科学
が確立した時(300 年前)が、何月何日に当たるか計算してみよ」:
答えは、人類発生は大晦日の23 時、現代科学の確立は新年を迎える2 秒前となる。この
結果を見て、あなたは何を思い、何を考えるか?

 確かに人間は、地球年齢からすれば極短期間に科学を発達させ、宇宙・自然のしくみ
について多くのことを知った。未解明のことはもうないと思っている人がいる位だ。本
当にそうだろうか?それは人間の尊大さ、否、無知を示していることではないか?
確かに、人間は多くの知識を獲得した。しかし、果たしてその知識を正しく使う知恵
と力を持っているだろうか?科学を発達させる過程で原爆を造り、環境破壊を拡げるな
ど負の成果も産み出し、人間自身の生命・生活を脅かし、動植物の生態を破壊している
のが現実ではないか。また大量のエネルギーを使用する文明社会を享受しながら未来へ
の確かなヴィジョンを描けないでいるのではないか?21世紀に入ってから10 年間が
過ぎようとしている現在、あなたは希望ある未来図(設計図)を提示することができる
か?

 何が問題なのか?一人ひとり今世紀を生きる人間として考えてほしい。人間は、今こ
そ自分自身を相対化し、人間の特性と限界を見つめ直し、地球市民としての生き方を築
き始める時ではないのか?20 世紀までの知恵では解決できない課題に向かい合わなけ
ればならない時代に私たちは生きている。課題があることは楽しいことではないか?あ
なたの役割があるということだから…。


3. 信仰とサイエンスは対立しない。それどころか信仰こそ科学する者の原点である。

 「主を畏れることは知識(サイエンス)のはじめである」(箴言1:7)。
人間は宇宙の中に置かれ、生かされている存在である。(人間が自分の意志で宇宙の中に
入って来たわけではない。人間が宇宙の中心にいるわけもない。ましてや支配者ではな
い)。私たちはこの事実の前に謙虚であるべきではないか?また、科学することの原点で
はないか?

 人間は自然の神秘(不思議)を探求し、そのしくみを利用し、資源を使って人間は自
然の中で生きのびる方法を習得し、安全で豊かな生活を築いて来た。そして、自分の力
で土地を切り開き、掘り出した資源や農産物、産業製品を自分の物(所有物)と考えて
いる。人間社会の中ではそう考えて当然であり間違っていないが、それらの結果は地球
という環境が与えられたお陰で得られた物ではないのか?人間は、いつの間にか地球は
人間の手の中にある物であると考え疑わなくなっている。そして、地球を開発し、より
豊かな生活を得るための手段としている。果たしてそれは正当な考えなのだろうか?

 地球は人間の所有物ではなく、人間は、住む所、働く土地を預かり、地球の恵みの産
物を与えられて生きているのはないか?では、所有者とはだれか?自然と地球の創り主
である。人間も神から生命をもつ者として創られた存在である。私たちは創造主に何の
断りもなく地球という土地とそこにある恵みの産物を使い続けていて良いのか?創造主
の考え、意思を聞き、この地球上で生きていくための基本を見据えて生きて行くべきで
はないのか?自然の恵みによって養ってもらい、生活や産業廃棄物を川・海に流し捨て
ても自然が浄化してくれた“幼少期”は過ぎたのだ。今や、サイエンスの知識と科学技
術という能力を身につけた“成熟した大人”として、自然を創造し自然法則をもって自
然を動かしている創造主としっかりと向かい合い、課題の多い21 世紀を生きることが求
められている、と私は信じ、自分ができることは何かを考えている。

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