宗教を理解するための要素 |
吉野輝雄
人知を超えた存在を信じる宗教は理解の範囲を越えている、という人が多い。宗教を理解するためには,次の3つの要素に注目する必要がある、と私は思う。
それぞれの宗教についてA, B, C を検証し,心から納得できなければ、当然commitment の表明はできないであろう。
いろいろな宗教について比較して述べられるとよいのだが、浅い知識しか持ち合わせていない私には無理なので、ここでは自分がcommit しているキリスト教について述べたいと思う。
A. 聖書に記されている父なる神と、神の子イエス・キリストと時と空間を超えて存在する聖霊なる三位一体の神が、天地創造以来、今も生きていると信じる。神を信じるのであって、人(法王、神父、牧師、教会指導者)を信じ、従うことではない。B. 神のいましめは、自分を愛するように隣り人を愛することと受け止め、これを社会生活の基本として生きる。
C. 神の愛はすべての個に(私にも)向けられており、全ての個がかけがいのない存在であると信じる。神から一人ひとりに与えられている命(identity/ talent/mission/Life)を自覚して日々を生き、死ぬまで生き抜くことが、神と人の前での意味ある生き方であると考える。
A とB
は、聖書にある十戒と、それを要約したキリストの言葉に根拠がある。すなわち、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして主なるあなたの
神を愛せよ。』これがいちばん大切な第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。』」(マタイ
22:37)
B は、信仰の有無に関係なく人と人とが理解し合い、協力し合えるところであり、A の真価が問われるところである。A を伝えたいと思うことは自然な行為であるが、A の強要はB の否定行為である。人間は、関係性の中に生きる者として神に造られている、とキリスト者は信じる。キリスト者はなぜ教会に集まるのか?教会は信者の集まる 場所や建物ではなく、神を父と呼ぶキリスト者が、キリストによって結ばれている共同体(Gemeinde)である。教会堂の有無は問題ではない。日曜日の 礼拝は、その事実を社会的に表明し、B の言葉に生きる決意を新たにするために行われている。
では、イスラム教、仏教、オーム真理教におけるA, B, C
とは何か?残念ながら私の浅い知識では責任をもって説明できないので、皆さんが自分で調べ、まず客観的な理解を持って頂きたい。その後で、commit
するか否かを判断すればよい。そこで問題となるのが、A
は理性的判断を超えている場合がほとんどである点だ(これが、「宗教は分からない」と敬遠される理由であるが)。いわゆる教典(聖書や仏教典、コーランな
ど)は、人間の言葉で書かれているので読むことはできるので、ある程度は理解できるが、理知を超えたところの記述が最後のカベとなる。ここで理解し合うこ
とは、特別に選ばれた人間以外はほとんど不可能だと、私は思う。
宗教の信仰者と非信仰者が、共通に理解し合える場(common
ground)がある。それは現実の社会的行為である。信仰者が信仰に基づいて行う行為が人間社会を豊かにするものであれば、多くに人の賛同と支持が得ら
れると思うが、人間社会を破壊したり、不安に陥れるものであれば、当然、反発を喰らう。キリスト教が、これまで学校事業や福祉事業に積極的であった理由
は、聖書の教えに根拠がある(と私は考えている)が、非信仰者も同じような事業を行っている。どちらが正しく優れているかというのではなく、社会的行為と
しては同等であり、人間の業として同じ地平で考え、議論できることが重要だと、私は考えている。
事業だけでなく個人の生活のしかたや人間関係も社会的行為である。何を信仰し、何を信条(価値観、思想)として生きても良い。良くも悪しくも批判される
のは現実の行動である。どのような信条が優れているかは、現実を良い方向に変える力、生きる力を失っている人に生きる力を与えることができるかを、多くの
人の目で見て、議論して決めればよいのだ。民主社会では、良くない慣習や人の行動を鈍らせる惰性を排し、新しい仕組みを築きあげるような考え方と実行力
が、人々に高く評価され、共通理解が得られる価値観ではないだろうか。国家権力や有力者の意向によって決定するのではなく、一人ひとりの(市民の)自由な
考え方、生き方によって社会を造っていくのが民主社会だからだ。思想、信仰の自由の根拠は、この辺にあると、私は考える。
少し話しを広げてしまったが、要するに、社会の中で宗教的信念における一致を追求すると終わりのない対立に発展してしまうが、信念に基づく社会的行為
は、誰の目にも明らかなので、より良い社会を築くものであるかどうかを相互に批判し合い、協力し合って行くのが、これからの信仰者と非信仰者の望ましい関
係ではないかと、私は考える。
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