川辺川ダム建設問題にみる「水と人間」の関係

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川辺川ダム

熊本県に、川辺川という清流日本一(97年度環境庁発表)の川がある。川辺川はまた、日本三大急流として知られる球磨川の最大の支流を構成している。これらの川は、今では珍しく本当の自然の姿を見せてくれる。いくつか紹介しよう。@球磨川は、30センチを超える「尺鮎」が育つ川として知られる。川の環境悪化が進む中、食べ、売ることもできる尺鮎は全国でこの川にしかいない。また、尺鮎は観光の目玉として地域の経済にも貢献している。A「絶滅危機種」であるクマタカ(熊鷹)が生息する。Bコウモリが生息する洞窟がある。学術的にも貴重な存在である。C川辺川には、少なくとも2711種の生物種(植物種847種、鳥類84種など)が確認されている。

 

このように多くの生命を育む川辺川に、1966年、高さ107.5m、総貯水量1億3,300万立方メートル(東京ドーム約107杯分)という九州最大級のダムを建設しようという計画が出された。その目的は、治水(洪水防止)、利水(農業用水・灌漑)、発電となっている。この計画は、すでに事業の七割が進み、水没地の移転代替地造成などはほぼ完了している。しかし、本体工事は球磨川漁協の反対で依然こう着状態が続く。なぜこのような豊かな川を破壊してまで建設すべきなのか。誰のためのダムなのか。

(出展<http://kawabe.technologic.co.jp/>http://kawabe.technologic.co.jp)

 

治水と利水―誰のためのダムか―

 

 川辺川ダム建設の主な目的は、治水と利水にある。

 

1. 治水・・・川辺川ダムの計画が本決まりになったの最大の理由は、前年から3年連続で起こった洪水であった。したがって、ダム建設の目的も一義的には治水が目的で、他の目的は副次的な意義に過ぎない。しかしながら、この治水という目的は住民の支持を得 るどころか、洪水で被害にあった住民ですらダム建設に反対している。それはなぜか。

 その答は、川辺川ダム計画の契機となった洪水の原因にあった。1965年のその洪水は、人吉市を中心に大変な損害をもたらし、「40・7・3水害」と呼ばれた。その洪水の災害が大きくなった理由は、実は、1959年に造られた球磨川上流の市房ダム放流であった。被害にあった住民はそのように認識している。だから、住民は市房ダムに加えて、市房ダムの3倍の大きさの川辺川ダムができることを新たな恐怖と考えている。建設省は、この二つのダムを調整するような「統合管理」はできないことを認めているので、この問題は一層悪化すると住民には受け止められている。その上、建設省が80年に一度の大雨のために造るという川辺川ダムの大義名分は、65年にその規準を超える大雨が降った際に水害が起こらなかったことで、説得力を失ってしまった。

 

2.  利水・・・ダム計画が立てられたのは戦後の食糧増産時代で、干拓や灌漑事業などの公共事業をして田畑を増やしていた頃である。しかし、現在では、減反政策の影響もあり、水田の面積は当時の半分に満たない。水も充分に足りているのが実情である。ダムができると、水に金を払わなくてはならなくなる。“受益”農家にとってもダムは「百害あって一利なし」のようである。(現在、受益農家は国を相手に裁判中である。)

 

環境への影響

 市房ダムの建設は、球磨川の水質を著しく低下させた。現在、その水質を支えているのは、球磨川の支流である川辺川である。先に紹介した「尺鮎」も、川辺川の澄んだ水の苔が育てている。川辺川が汚染されてしまったら、一体どのくらいの生物が死滅するのだろうか。

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(人吉市より上流に位置する川辺川と球磨川の合流地点 

資料<http://kawabe.technologic.co.jp/kawabe/gouryu.jpg>http://kawabe.technologic.co.jp/kawabe/gouryu.jpg

 

以上の考察から、川辺川ダムは住民のためのものではなくて、むしろ、住民の利害に反する計画であることが分かった。この問題は、日本の公共事業計画の実情を物語っているように思う。それでは、この問題に対して、人間・人類は何をすべきであろうか。

 

自然との対話 

 わたしは、その答を「自然との対話」に求めたい。このように考えた理由は、このような公共事業を始め多くの人間の経済活動は、自然という存在をほとんど考慮に入れていないように思えるからである。この場合も、「川辺川と人間」という観点から、このダム問題を捉えているのは、住民側だけであって、国や県ではない。現状を見る限り、国や県の頭にあるのは、利益誘導だけではないかと思えしまう。少なくともいえるのは、頭の中ではなく、自分の体で川辺川の重要さを認識すべきということだ。自然と言うのは、人間の感性にうったえる力がある。自然とは、人間の最も人間らしい性質、感性や感覚で感じることができるものである。けっして頭の中では計り知れない。カネとの対話から自然との対話へ変わってもらいたい。

 具体的には、やはり環境アセスの実施を国は受け入れるべきだ。現在、国は、川辺川ダムの計画が古いので環境アセスは必要ないと言っている。国は、環境保存型の新しい公共事業を検討しているらしいが、無駄な事業を断念することも「環境保護」だと思う。

 

 私たちは、今いるところで何ができるか?

 

 私たちは誰しも、自然(水)と接する体験、自然への恐怖、畏敬、感動など、さまざまな経験を持っている。そのような経験は、芸術や音楽やスポーツとは異なった感動を与えてくれる。それは、誰しも持っている人間的な感性にうったえる水の力を教えてくれる。水はただでさえ、私たちの生活には欠かすことのできないものだけれど、「自然の水」はすべでの水、生命の源である。当然のことだが、自然の水は一度破壊してしまったら、もとには戻せない。経済的な秩序で成り立っている今の世界では、このような初歩的なことを軽視しがちではないだろうか。また、人工的な水に囲まれた日常では、個々人の持っている「自然の水」体験は忘れられがちではないだろうか。私たち個人に今必要なのは、もう一度自分の「自然体験」を訪ねて、そのかけがえのなさを絶えず認識することではないだろうか。日常の水とともに「自然の水」と人間の関わりに目を向ける必要があるように思う。

 

 実践的には、インターネットという道具を利用して、例えば川辺川ダムの署名活動に参加するとか、どこにいても活動することはできるだろう。インターネットの世界は、問題意識を世界に発信することができ、運動を拡大して強力にすることも可能だ。そんな意味で、希望のある時代だと思う。

  

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