命の水を守ろう

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 水の人間の関係についていうとまず、水がないと人間はおろか生物はみな生きていけない。食料を作ることもできないし、工場を動かすこともできない。考えてみると私たち人間は日常生活において水をさまざまな方法でさまざまな時に使っている。朝起きて顔を洗い歯磨きをすることから始まって朝食用に米や味噌汁を作るときに使う水、食器や手を洗うときに使う水、のどを潤してくれる水、体を清潔に保ってくれ、更に疲れをとって癒してくれる風呂の水など私達は水とは切り離すことのできない生活を送っている。また精神的にも水は噴水や水槽、川のせせらぎや海の揺らめきなどとなって私たちを癒してくれる。私たちの日常生活の裏でも、水は工業に農業にと大量に使われ、私たちの生活を支えてくれている。そんな水を、今私達は自分たちの手によって汚し、枯渇させてきているのだ。

 

 日本は「水の豊かな国」と言われる。しかし実際は雨頼みで、雨が少ない年には全国的に渇水が起きる。湖や設置されている貯水ダムなどでは間に合わないほどに私達は水を使っている。国内の年間の水消費量は、ダムの全容量の4倍を越える約九百億立法メートルにも及ぶ。しかもその量は徐々に増えている。このうち、工業・農業用水はリサイクルと節水が進んで横ばいなのに、家庭の生活用水だけが伸びているが、それは核家族が増え、水の消費量が急増したため、全体を押し上げた格好だからだ。とはいえ日本はまだ今のところは水が豊かな方で、渇水になるといっても世界の他の国々に比べると渇水期間の長さから言ってもその規模について言っても知れたものだ。世界には気候の激変により水がなくなってしまった場所も数多い。最近問題となっている地球温暖化でも世界の水事情は変わっていきそうだ。降水量に伴う河川の水量への影響や、気温の上昇に伴う水需要の増加などである。河川の推量が今の設備状況のまま急激に増えれば、洪水が各地で多発することは目に見えている。また、気温の上昇により人々の水需要が高くなると、そのための供給側の更なる設備の発達が要求されるだろう。更に酸性雨の影響は湖沼などの水資源の水質に直接影響を与える。土壌の酸性化による樹木の立ち枯れなど、森林への影響も無視できない。その根や根で支えている土によって空から降ってくる水分を一時的に貯蔵し洪水や土砂などを防ぎ、少しずつ源流として私達に供給してくれる森林が減少するとなると、ただでさえ地球温暖化の影響で地上の水分が蒸発して降水量が増加し、受け皿としての森林が必要とされている今の時代、雨が降るとすぐに洪水や土砂が頻発するような世の中になってしまうだろう。まだわが国では顕著な被害は報告されていないものの、水源地の水質が酸性化している事例が確認されている。スウェーデンやノルウェーでは多くの湖沼で水質の酸性化が進み、魚類の生息に影響が出ている。

 水質の悪化も各地で進んでいる。特に、生活排水が流れ込む都市部の中小河川と湖沼は、汚染が深刻だ。水道水の約七割は、こうした河川から取水しているため、現在の浄水技術では完全に処理し切れず、「飲み水がかびくさい」といった声が相次ぐ。九五年度は、約千二百十万人が不満を訴えた。水の中の汚れと、浄水場で消毒に使う塩素が反応して出来るトリハロメタンも、発がん性が疑われる水の汚染物質としては最近、環境ホルモンにも、注目が集まる。現在の浄水は色やにおい、濁りなど感覚的に分かるものを浄化している。しかしダイオキシンなど五感で分からないものがたくさんある。より高度な浄水システムが必要になる。環境省の調査によると、ここ十年の水質の環境基準値の達成率は、河川は80%前後、海域は70―80%、湖沼は40%前後で推移している。かなりきれいになってきているとは言え、まだまだ努力の必要がありそうだ。規制の強化で工場排水は改善が進み、汚染の主な原因は家庭排水となりつつある。私たちはあまりに多くの嫌なもの、汚いものを、水に流してきた。食事の残りカスにはじまって、洗濯や毎朝のシャンプーのすすぎ水に、トイレの汚水……。川の主な水の汚れは、そこから始まる。「少しくらいなら大丈夫さ」では済まない。おわん一杯のみそ汁でも、きれいな川の水くらいに薄めるには、ふろの水が六杯もいる。日々の生活の中で、気が付かないうちに、どれほど水を汚していることか。水は循環しているから、こうした汚れは巡り巡って自分たちのもとに戻ってくる。結局は私達のツケになる。蛇口をひねれば水が出る。それを「当たり前」と思う前に、蛇口の向こう側でいま起きていることにも目を向けたい。川は自ら浄化する力を持っているが、それは流れることによって酸素を水中に取り込み、川底の砂利が汚れをろ過したり、魚やバクテリアが分解したりするからだ。しかしこの浄化力を超える汚れが流れ込むと、本来の清らかさは失われてしまう。私達はこの川の本来の清らかさを守るために水質悪化の主な原因である家庭排水を何とかしなければならない。

 

 一方、海の汚染では船舶からの油の流出事故が代表的である。一定規模以上の事故でみても、世界では毎年二百件前後発生しており、生物へも被害をもたらしている。私達がよくニュースで見かけるのは石油タンカーからのオイル漏れなどだが、これは海の水に浄化されずに溶けもせず、漂流しつづけて終には海に生息している動植物、私達の養殖している海藻などにも多大な被害をもたらす。最近ではプラスチック類の漂着ゴミも問題化、プラスチックの小粒を生物がエサと間違えて飲み込み、死亡する事態も起きている。上に述べてきたような水質悪化の原因は元はといえばほぼ全て私達人間側の問題であり、生物を生み、そして育ててくれた海や水への恩返しどころか逆に害を与えつづけてきたのである。

 

 しかし、害を与えつづけてきた私達に海や水は更に恩恵を与えようとしている。46億年前、生まれたての地球を覆う熱いマグマから蒸発した水がやがて冷え、激しい雨となって地表に降り注いだ。雨は数百年も降り続き、さまざまな元素を溶かし込んだ。その大量の雨がたまって全ての生命が生みだされた海となった。海がなければ、生命は誕生しなかったし、地球の気候も安定しなかった。そして海は、人間に多くの恵みを与え続けた。蛋白源を魚に求めたのは4万年以上も前のことだ。今、光も届かない深海にまで私達人間は獲物を求めている。窒素分などの養分が豊富な深海水はすでに身近な商品だ。深海に生息している微生物にも今私達は研究を進めている。微生物は生態系を支えるだけでなく、薬など多くの有用物質を与えてくれる。抗生物質ペニシリンや一番売れている高脂血症薬はカビから、臓器移植で使われる免疫抑制剤は筑波山の泥の細菌から、それぞれ見つかった。手を入れたら溶けてしまうほどのアルカリ性の環境で生活している細菌からは、いまの洗剤に入っている酵素が取れた。製薬や化学企業は、世界中の泥を集め回っている。しかし、地上はもう探し尽くした。残っているのは深海だ。深海の微生物は、高圧、高温の厳しい環境に生きている。だから予想もできない、不思議な能力をもっているかもしれない。さらに、さまざまな元素を溶かし込んできた海には、私達が生活する上で必要不可欠な物質が数多く含まれている。そのもっとも有名なものは原子力発電に使われているウランである。今でこそウランは供給過剰だが、60年もすれば掘り尽くされる。100%輸入に頼る日本にとっては死活問題だ。そのウランが地球全体の海水の中に45億トンもの量が含まれているのだ。この量はウラン鉱石の埋蔵量の千倍でもあり、海に囲まれている日本が利用しない手はない。海水に含まれているウランを効率よく捕まえ、取り出すにはまだまだ技術の向上が必要だが、それを応用して海に含まれている多種の元素を取り出すことが私達人間の夢である。もしこの試みが成功すれば、掘り尽くされ枯渇しそうなさまざまな資源を広大な海から大量に採取し利用することが出来る。地球上で人口が増えつづけ、さまざまな物質資源が欠乏している中、この発見は人類にとって繁栄を維持するための重要な手段となるだろう。

 

 このように、水は私たち人間にとって幅広く恩恵を与えつづけてきた。生きるために、またその生活をより豊かなものにするために、人間は水の恩恵を受けつづけ利用しつづけてきたのだ。しかし人間はその恩恵に報いるどころか逆に水を汚し、地球のサイクルを乱してしまった。これから私たちは水に、どう報いればよいのだろうか。おそらく最もよい方法とは人間が地球上から消えてしまうことだろうが、それは無理なことだろう。今日の状況を挽回しこれからも地球に、また水に恩恵を受けつづけるために私たち人間は一人一人が努力をしていかなければならない。家庭の水消費量や排水に気を遣い、水を大切に使ってゆくといった小さなことから、工業や施設で大量に使われている水を節約し、またリサイクルしていくといった大きなことまでできる努力はすべてするべきであろう。また水に直接は関連していない努力、例えば廃棄物や生活をする上で消費する物質の環境に対する影響などを削減することも考えていかなければならない。土壌や大気が汚染されることは水の汚染にもつながっているのであり、すべては影響しあっているからだ。地球の元気さのバロメーターでもある川や海の美しく豊かな水を保ちつづけていくにはこれらの努力を惜しむべきではない。なぜならその何倍も、むしろ比べることができないほどに私たちは水に恩恵を受けてきたからだ。

 

<参考文献>

「みんなで開く環境新世紀」 (4)豊かな水は生命の源(連載) 東京朝刊 2001.05.26
「海の新時代 未知の領域の力を引き出す」 週刊アエラ 東京 2001.12.31
「みんなの地球・環境教室」 (5)命の水を守ろう(連載) 東京朝刊 1998.06.20

すべての文献は朝日新聞データベースより検索したものです。

 

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