W3M1
今回のこのレポートを私は日本とその他の国における「水」に対する意識の相違という観点から考察したいと思う。今年の三月十六日から第三回世界水フォーラムが京都において開催される。それをふまえて、世界の中で日本人は「水」をどのように捉え、またそれはどう位置づけられるかを調べてみようと思ったわけである。これに関連した資料がレポートの最後にある資料1〜3である。資料1はミツカン水の文化センターにおいて日本人を対象に昨年七月に行われた水に対する意識調査の一部である。資料2は昨年朝日新聞紙上に連載されていた川原一之氏のコラム「バングラひ素ひと話」というもので、バングラデシュにおける水事情について書かれているものの一部である。資料3は昨年の十二月に出された、世界水協議会の各国の水の貧困度についての調査結果のプレスリリースの一部で、その調査方法及び日本についての記述の部分を抜粋した。
まずは資料1を用いて日本人の水意識を示す必要があろう。どのようなときに水のありがたみを知るのかという問いに対して一位は「給水制限の行われているとき」二位は「水を飲んで渇きをいやすとき」といずれも飲料水としての水の機能について言及していることが判明する。三位には「自然の水に接するとき」が入り、飲料水以外の水に接する機会の少なさを物語っている。ここまでが過半数であり、残りは「久しぶりの雨が降ったとき」「シャワーを浴びるとき」「外国に行ったとき」と続く。こうしてみると水を飲むことのできる生活を享受している日本人であるが、そのことに対して思ったより、当たり前のことだと認識している人は少ないのではないだろうか。ここ数年の水質汚染の進行やそれに伴うミネラルウォーターの需要の拡大から、人々の水に対する意識は向上しているものといっても差し支えないだろう。また、それとは別に注目したいのが三位の「自然の水に接するとき」である。これには私も納得する。私はスキューバダイビングのライセンスを取得しているのだが、日本で潜ったのはたった一回しかない。自然の水、人間の手の入っていない水、海が日本にはあまりにも少なくて潜る気がしないのである。つまり、後でも述べることであるが水へのアクセスという点で日本は問題を抱えているのである。
次に資料2を用いて日本との比較をしてみたい。記事を読む限りバングラデシュのみならず、ヒマラヤ下流域における南アジアから東アジア全土に渡って、このヒ素による井戸水の汚染は広がっている。確かにこれは危機的な状況であることは間違いない。だが、誤解をしてはいけない。水はあるのだ。工業用水や農業用水として利用するのであればそこまで深刻な問題とはならない。その水が生活用水、飲料水として活用できない、それが問題なのであって、アフリカや砂漠地帯における渇水とは別の問題であることは明確にしておかなければなるまい。つまりこの記事が我々に伝えている問題とは人体に悪影響を及ぼすほどまでに増大させてしまった我々人類の環境破壊の愚かさと依然として井戸水に頼らざるを得ない地域の伝水技術の未熟さである。
最後に資料3は世界各国の水の活用可能な範囲を五つのカテゴリー(貯蔵力・資源・アクセス・利用・環境)に分け数値化したものであり、World Poverty Indexと呼ばれるものである。これによれば日本は百四十七か国中三十四位とまずまずの成績を収めている。だが、調査対象に前述のような伝水技術の乏しい南アジアやアフリカ諸国が含まれていたことを考慮すれば、この順位は決して楽観視することのできないものである。五つのカテゴリーをそれぞれ分析すれば、アクセスと貯蔵量は高得点を示すものの、利用・資源のカテゴリーのポイントは決して高い得点とはいえない。つまり、現時点での水の利用については緊急の問題は見当たらないが、潜在的な不安を日本は抱えているのである。また、利用のポイントが低いことについて再利用という観点からこの問題を論じれば、農業用水の再利用が、日本の経済力から考えればもっと積極的に行われるべきだとの専門家の見解も示されている。これは日本の「水の豊かさ」の弱点を見事に言い表している。つまり、貯蔵・アクセスの日本が高得点を得ているカテゴリーは技術力の証明である。この優れた水管理技術を用いて、ポイントの低い利用・資源をカバーするのが一番効率のよい方法であることは明らかであろう。
さて、資料1から日本人の持っている水意識、資料2からは南アジアにおける飲用水調達の問題点、資料3では世界各国と比較した場合の日本の「水の豊かさ」が示された。これらに対して、まず人類は何をなしうるかという広い観点から論じよう。第一に注目するのはやはり飲用水の調達に苦労しなければならない人がこの二十一世紀においても確実に存在するということだ。私はこの記事を読みショックを受けざるを得なかった。日本に比べて貧しい国が存在するということは当然承知していたが、それはあくまでも国家の成熟度に起因する経済力や技術力、はたまた国際社会における政治力などを漠然と指すものであると理解していたからだ。実際に生活が、しかも人体にとって決して欠くことのできない水が調達できないとはにわかに信じがたいのである。そして記事中の次の記述がさらに私の心の動揺を促した。
人間は、少量のヒ素を摂取しても無毒化して対外に排泄する機能をもっている。
人類が、地球上でヒ素と共存していくうちに備えたものだ。ヒマラヤ下流域で
は、この共存関係が崩れて、地上にくみあげられたヒ素が、人体に悪影響をお
よぼしだしたのである。私たちは、このヒ素の怒りを、人類への警告として受
けとめるべきではあるまいか。ヒ素が、自然の秩序をこわしていく現代人に、
何かを語ろうとしているように思えてならない。
この大量のヒ素が混入した水が生まれた原因は自然と人間との共存関係が破壊されたことにある。共存関係の破壊とはすなわち先進国(便宜上、先進国・途上国という言葉を用いるが)が産業革命以来絶えず推進してきた技術革新という名の環境破壊に他ならない。つまり、このヒ素混入水は現在先進国が享受している文明社会の代償、負の遺産なのである。そしてその代償を途上国が背負わされ、その結果発展が妨げられている。こうしたきわめて異常な構図がこの記事から浮き彫りになってくる。私は今まで貧困にあえぐ国への募金活動やチャリティーには懐疑的であった。その国家が抱える問題とは基本的に他国の人間は干渉するべきではないと考えていたからである。しかしこのケースは責任の所在が明確である。先進国は早急に問題解決のプランを考えるべきである。そして、それは従来の技術協力や政府開発援助(ODA)という名目でなされるべきではない。補償という形式で行われるべきなのである。日本を含め先進国は自らが蒔いた芽を摘み取らねばならない。
今述べたことは国家・政府レベルでの話であるが、では実際に日常生活をしている我々は何ができるのであろうか。資料1から判明したことは日本人の水、特に飲用水に対する意識であった。そしてそれは思ったほど低下していない。この傾向は特に都市部において際立つ。都市部に住む人間は水道の水は汚れている、飲用水は購入するものという意識が強いからである。だが、資料3からも読み取れるように飲用水以外の生活用水、工業用水、都市用水に対する意識は希薄といわざるを得ない。例えば、飲用水以外の生活用水では風呂場の水が身近な良い例ではなかろうか。現在の私の住居では風呂場の利用済みの水を自動的に洗濯機に送るシステムが備え付けられている。はじめのうちは、なんて贅沢なシステムだろうと眉をひそめたが、風呂場の水をそのまま排水してしまうほうがよっぽど贅沢なことは言うまでもあるまい。ぜひともこの再利用システムは全住宅に配備するべきである。こうすることで日本人のさらなる水意識向上が期待できよう。資源は限られている。それならば技術でその資源を補おうではないか。また、他国の水状況に対して理解を深めることも重要である。渇水に悩む地域、水の浄化が困難な国が存在することを認識すべきである。そして、積極的にそれらの国に対して民間のレベルでも支援していくべきなのである。まもなく開催される世界水フォーラムはその契機のひとつになるであろう。こうした草の根的な運動が世論の高まりに通じ、やがては政府を動かしていくのである。かつては私も、個人の力で遠く離れた異国の人間に対して何ができるのかを自問自答したことがあった。確かに直接的にできることは少ないであろう。しかし、このように間接的な形で貢献できることはいくらでもあるはずである。加えて今回の記事のようにメディアの果たす役割も決して小さくない。彼らの伝える記事、ニュースがこの運動にとっては決定的に重要である。
水とは私たちの生活にとって欠かせない物質であることは周知の事実である。だが、人間というものは身の回りにあるもの、当たり前の存在になっているものを見逃してしまう傾向が強い。だが、日本の水がバングラデシュと同様にヒ素混入水になったらと思うと寒心に堪えない。今こそが水を深く考えなくてはならない時機である。特に「水の再利用」という考え方は私にとって、とても新鮮であったし、またWater Poverty Indexから明らかになった日本の抱える問題点を解消するカギである。世界水フォーラムを含め、今後の日本政府の水政策に注目していきたいと思う。
(資料1)
http://www.mizu.gr.jp/kekka/2002/1nichi_06.html(2002/7)
◇トップは『給水制限が行われているとき』(67.8%)
大都市の生活者が「水のありがたさ」を感じるのはどんなときでしょうか。
1位『給水制限が行われているとき』(67.8%)、2位『水を飲んでのどの渇きをいやすとき』(61.9%)、3位『海や川等の自然の水に接するとき』(50.7%)までが過半数に達しました。
(資料2)
http://www.asahi.com/international/hiso/index.html (2002/2/14)
ヒマラヤ下流域に広がる汚染
川原一之(プロフィール)
バングラデシュの首都ダッカでは、毎週1、2回、ヒ素をテーマにしたセミナーやシンポジウムやワークショップが開かれている。全土に掘られた手押しポンプ井戸は約800万本、基準を超えたヒ素を含むのはそのうちの25%、その水を飲んでいるのは約3000万人。ヒ素対策は、バングラデシュの最重要施策なのである。
1月14日から16日まで、政府主催の「ヒ素に関する国際ワークショップ」が開かれた。印象に残ったのは、ネパールから参加した水供給技師アマル・ネク氏の報告だった。「ネパール南部のテライ平原でヒ素汚染井戸が見つかり、すでに患者も確認された」。私は、1995年2月にインドのカルカッタで開催された「地下水ヒ素汚染に関する国際会議」を思い出しながら、その報告を聞いた。
インド・西ベンガル州で、井戸水から高濃度のヒ素が検出されたのは1983年のことだ。その後の調査で、汚染は西ベンガル州内6県におよび、ヒ素中毒患者は20万人にのぼると推定されていた。この会議には、世界十数カ国からヒ素に詳しい医師や化学者や地質学者などが集まった。その席で、バングラデシュの参加者が「インド国境に近いバングラデシュの村でヒ素に汚染された井戸が見つかった」と述べたのだ。
7年前にカルカッタで、バングラデシュにヒ素汚染が広がっている話を聞き、いまダッカで、ネパールでも確認された話を聞く。これまでに得た情報では、カンボジアとベトナムでも井戸水のヒ素汚染が見つかっている。南アジアから東アジアにまたがるこれら汚染地は、ヒマラヤから流れくだる大河川の沖積地である。それまで地下に眠っていたヒ素が、なんらかの理由で地下水に溶け出して、地上に汲みあげられだしたのだ。20世紀の後半、ヒマラヤ下流域の地下でいったい何が起きたのか。
「手のひらの皮膚症状を示して不安そうな少女(1996年12月、バングラデシュ・ナバブゴンジ県で)」
人間は、少量のヒ素を摂取しても無毒化して対外に排泄する機能をもっている。人類が、地球上でヒ素と共存していくうちに備えたものだ。ヒマラヤ下流域では、この共存関係が崩れて、地上にくみあげられたヒ素が、人体に悪影響をおよぼしだしたのである。私たちは、このヒ素の怒りを、人類への警告として受けとめるべきではあるまいか。ヒ素が、自然の秩序をこわしていく現代人に、何かを語ろうとしているように思えてならない。
アジア砒素ネットワーク(AAN)は、アジアのヒ素汚染地で、現地の人たちとともに解決へ向けて取り組むNGOである。1994年、宮崎県高千穂町土呂久のヒ素公害患者の闘いを支援した者を中心にして結成された。その設立に関わった私は、いまダッカに住んで、AANのメンバーとして、JICA派遣のヒ素対策アドバイザーとして、バングラデシュのヒ素汚染対策に協力している。その基本は、ヒ素と人との共存関係をどうやって回復していくかにある。
この連載は、アジア砒素ネットワークの対馬幸枝、緒方隆二、石山民子と私の4人が交代で執筆する。ヒ素汚染地の住民、対策に努力する技術者、現地NGOスタッフらと私たちが、困難をともにして歩むドキュメントである。しばしば歩みを止めて立ちどまり、ヒ素のつぶやきに謙虚に耳を傾けたいと思っている。
(資料3)
http://www.worldwatercouncil.org/download/WPI%20press%20release.pdf(2002/12/11)