世界の水危機にどう対処するか 

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今、地球上で何が起こっているか/情報が伝えていることは何か?

 かつては清流だった川が人間の営みにより汚染され見る影もない汚れた川になってしまったという現象はおそらく世界中至る所で見られるものだが、その汚された川はいつしか当たり前の情景となって人々から目を向けられることは少ない。しかし今回の「タマちゃん騒動」は、汚された川に人々の注目を集めるいいきっかけになった。アゴヒゲアザラシの出没する河川が変わるたびにその川の水質が注目され、自然に触れる機会の少ない子ども達の関心をも集めた。しかし、水質汚染が進んでいるのは「タマちゃん」が出没した川に限ったことではなく、私たちに身近な河川のほとんどがそういった問題に晒されている。アゴヒゲアザラシの出現は身近な環境問題に気づかずにいた私たちに貴重な問題提起をしてくれたのだと思う。

 21世紀は「水の世紀」になると言われている。しかしそれは水の問題が新しい問題であることを示しているのではない。「水の世紀」とは水をめぐって紛争が起きるであろうという不吉な予想が反映されている。水の問題は水が人間の生活に欠かせないものであるがゆえに、存在を当たり前のように感じてしまい、地球上の水に危機が起きていることに気づくのが遅れたことで深刻さが際立ってきた問題である。「世界水ビジョン」は、2025年には世界人口の4割が深刻な水不足に直面すると警告している。たった今も安全な水を手に入れられない人々がいて、水による伝染病により年に300〜400万人もの人が死亡しているのである。水資源は有限である。地球上の人口は増え続けているが、人間が生きる為に水が必要不可欠であることは変わらない。その限られた水もその全てが安全なわけではない。さらに問題は水質の汚染にとどまらず、人間の都合で自然界の水の循環が分断されることで、生態系の変化や気象変動など二次的な環境破壊をも引き起こしている。水の問題は流動性というその性質上、地域的な問題にとどまらない。水のサイクルの分断も地球規模の変化をもたらすことになる。したがって、水問題は一国が考える問題ではなく世界が一体となって取り組まなければならない課題である。日本で行われる第3回世界水フォーラムが使用言語に英語だけでなく複数の言語を採用したことは、一般の人を含めた世界中のより多くの人が水問題にアクセスできるようにすることであり、「水問題」というものが一部の国で解決できない問題であることの証拠でもある。グローバルイシューとして地球環境問題が挙げられ、森林破壊や熱帯雨林の消滅などがしばしば脚光を浴びる。しかし環境問題イコール「緑の問題」ではない。緑を育てる為にも水が必要となることを考えると、水問題がいかに根源的な問題であり、早急に取り組むべき重要な課題であるかが見えてくる。水問題の大切さと共に記事が示していることは、人類の水問題への取り組みがまだ始まったばかりであるということである。ようやく世界規模で「水」について考える姿勢が出来てきたばかりで具体的な行動や大規模な協力はまだ始動していない。今後私たちがもっと一体となって水問題に関わっていかなければならないということを示唆している。

 

人間は何をすべきか?

 まず私たちは水問題の存在に気づき、その問題を常に忘れずに認識していなければならない。人間がたった今深刻な「水の危機」に直面しているということに全ての人が気づくことが必要なのである。それは問題が認識されないかぎり何も行動は起こらないからである。幸いにも情報化社会にある現代では、自分の生活において水の危機を感じる機会が少なくても、世界中の水の危機に瀕している地域の情報を得ることができる。水問題にについていち早く気づき深く考えている人が発している警告を聴くこともできる。それは特に水に不自由していない先進国の人々にとって有効である。

水問題に取り組む上では、自分の国さえ良ければいいという考えではなく、水問題が人類共通の問題として取り組まれなければならない課題であるという合意が形成されることが大切である。水の循環に国境はないからである。水質汚染の原因は何か、水の枯渇の原因は何か、浪費されている水は何か、といった水問題の要因を把握して、汚染原因が発展途上国にあるのならその国に原因の排除を押し付けるのではなく、人類の共通の問題として全ての国が一体となって問題の解決に協力していくべきである。そのためには、大きな問題が起きた時だけ話し合いを持つのではなく、定期的に問題の存在を確認し、どのように協力をしていくかなど協力体制を整えておいて、いつでも問題解決に迅速に対応できる状態を作っておかなければならない。そして水問題においてリーダーシップをとる機関も必要である。国の利害で動くのではなく、地球上の水の問題として解決にあたる上で専門機関があれば、国同士の対立関係を生み出すことを防ぐことにもなるし、より効率的に問題に取り組むことにもなるはずである。専門の知識によって水の循環の問題が、あるいは汚染の原因が判明すれば、新たな問題を防ぐことにもつながるだろう。水問題においては先進国であろうと発展途上国であろうと関係ない。この地球上に住む全ての人間が水を必要とするからである。全ての人に水が行き渡ること、全ての人が安全な水にありつけること、それを実現させるためには限られた水を浪費しない、汚さないということである。今人間がすべきことは、世界規模で協力して国境を越えて循環する水のサイクルを守り、その周りの環境や生態系を守ることである。そしてそれは自らを守ることでもある。

 

私たちは、今いるところで何ができるか?

 地球が直面している水の問題に気づいたら、自分の身の回りの「水」に関心を持つことが第一歩である。水の大切さを忘れかけている私たちは水の存在の大きさを再認識する必要がある。それは水問題を単に地球環境問題として捉えていては漠然としか認識されないだろう。自分の使っている水はどこからきているのか、自分が使った水、汚した水はどこへ行くのか、その後どうなるのか、といったことに目を向けると自分が当たり前のように使用している水が特別な存在であることに気づかされる。具体的に水の大切さを認識することができれば、日常生活で節水を心がけることが行動として伴ってくるだろう。世界規模で起こっている水の危機から考えると、日常生活における節水などというものは何の足しにもならないような気がすることも否めない。しかし自らが水を大切にする姿勢を持たないでいて水問題について語ることができるだろうか。結局は一人一人の「自分だけがしても」という消極的な気持ちが水の浪費を膨大なものにしていくのである。それに私たちができることは日常生活の節水だけではない。自分の生活に関わる水だけでなく、地域の水まで関心を広げることができれば、地域の河川や湖、海をきれいに保つための活動に参加したり、活動を呼びかけたりするなど自分一人の活動からグループでの活動に輪を広げることができる。そして世界中に向けて発信されているメッセージや警告に常に敏感であることも大切である。自分が受け取った水問題についてのメッセージをより多くの人々に伝えるということも立派な水問題への参加の方法である。常に「水」に関心を持っていることは地域の企業や工場施設が水を汚染していないか監視することにもなり、自分の体内に入ることになる「水」をチェックすることは自分を守ることにもなる。どんな企業活動にも、どんな生活にも、人間がそこで生きている限り「水」はついて回る。それは水問題が自分の身の回りのどこにでも存在するということである。だからこそ水問題は誰にでも参加できる環境問題であり、誰もが参加すべき問題なのである。

 

参考文献

http://www.jichiro.gr.jp/tsuushin/692/692_03.htm

「世界の水危機にどう対処するか―第3回世界水フォーラム、来春日本で開催」自治労公営企業局,2002年3月号

http://www.eco-online.org/news/index.shtml

「タマちゃんの川まずまず 手賀沼ワースト返上」2002年12月25日

「タマちゃんがいた川」2003年1月9日,朝日新聞

 

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