2003年は国連の「国際淡水年」であるそうで、毎日新聞の2003年1月1日の第二朝刊に水と人間についての特集が掲載されていた。記事は大きく分けて三つのことについて取り上げていた。一つ目は中東に焦点をあてたもので、死海湖岸に次々と出現しているシンクホールとヨルダン川などの貴重な水資源を巡って起きている国際紛争についてである。二つ目は、ミネラルウォーター市場などの「水ビジネス」を取り上げたものである。三つ目は日本の富士山が保有する豊富な水に関するものである。
中東諸国の大部分は砂漠地帯のため、その周辺諸国にとってヨルダン川などは貴重な水資源である。中東はイスラエル・パレスチナなど紛争の多い地域だが、その火種の一因としてそういった水資源の確保がある。第三次中東戦争でイスラエルがシリアから奪ったゴラン高原はヨルダン川の源であり、それを返還する際にも水の問題があった。最後の数百メートルで貴重な水源であるガリラヤ湖がどちらの国に属するかが決まるため、その数百メートルをどうするかで和平交渉が決裂してしまった。また、イスラエルがヨルダン川を占領したため、パレスチナのヨルダン川の水利用が一切認められなくなり、その不公平な水配分が問題となっている。
そういった貴重な水を巡り紛争が起きている一方で、水をビジネスとしたミネラルウォーター産業が成長している。健康志向の高まりもあり市場の伸びが著しく、水の持つミネラル分の薬効なども注目され、大手「ネスレ社」のミネラルウォーターブランド「ヴィッテル」の水源地、フランスのヴィッテルでは鉱泉治療施設などのビジネスへと発展している。
日本では、富士山の湧水が豊富だ。富士山に降った雪や雪解け水が地下に浸透して湧き出したもので、その豊富な湧水量は日本最大とも言われる。しかし、水の消費の増加が原因で湧水量が減少してきている。
人間は水なしでは生きていけない。水の惑星といわれる地球は生きていくのに豊富な水を保有しているはずだ。本来、生物の存亡に必要不可欠な水は、皆が共有できるものであるべきではないだろうか。しかし、人間社会の中で生まれる民族や宗教、国家間での争いなどによって公平に配分されていない。その一方で、一部の人たちにもてはやされ、商品として値段が付けられ、水の売り買いが行われている。また、人口の増加とともに、目先にとらわれた水の利用によって今、不足しつつある。それの一例が死海湖岸に多数出現し始めたシンクホールであり、富士山の湧水の減少である。この「水と人間」に関する三つの記事に共通することは、不均衡な力関係により、持てる者・持たざる者に分かれ、水を享受できる人と水によって被害をこうむる人が出ているという事実である。
先にも述べたように、人間社会の民族、宗教、国家といった様々な枠組み・境界や、経済力という力関係により、地球に存在する皆が公平に水を利用することが困難になっている。しかし、民族も国家も経済力も関係なく、皆にとって水は生きる上で必要不可欠なものである。日本のような経済的に豊かな国に住んでいると、水は蛇口をひねれば出てくる、自然にそこに存在するものとして捉えられているような気がする。生きるための水を求めて国家間や民族間で争いが起こることはなかなか想像しがたいだろう。このような意識の差自体が、不均衡な力関係の産物であるように思われる。水に困っていない人たちは、このように新聞で特集され記事にならないと、水を争っているという事実さえも知らずに過ごす人が多いのではないだろうか。
今、人類が何をすべきか?という問いに対しては、もちろんその不公平な水分配を是正し、皆が生きるために必要な水を得られるよう持続可能な方法を見出すことである。おそらく実際的な問題は様々あるだろうし、中東なら中東の、地域ごとに見合った対策がなされるべきである。しかし、それをその地域の問題として片付けるのではなく、地球の資源である水を考える上で持てる者もそうでない人たちのことを十分考慮すべきである。水に困っていない国や地域はそうでないところに対して援助を行うなどができるはずだ。具体的な援助方法は色々あるだろうが、まず、その不均衡な力関係が生み出しているともいえる意識の格差を埋めることが大事なのではないだろうか。国境を越えて行う実際的な援助活動と平行して、水が地球上の人間すべてにとって貴重な資源であり、それを人間社会で生み出される枠組みによって後先を考えずに濫用するのではなく、持続可能な水の利用を万人ができるべきでありその権利があることを、教育などで広く知らせることが重要だと思う。
今地球上に起こっている「水と人間」の問題で、人類がなすべきことは、先を見越した持続可能な水の利用である。では、われわれ一人一人はどのようなことに取り組めばよいのだろうか。ここでは、特に日本においてどのようなことができるか考えてみたい。記事によると、海に囲まれた島国である日本は河川も多く、降水量も世界平均の二倍近いそうである。このような水の豊富な環境では、それがなかなか手に入らないという状況は想像しがたい。水は蛇口をひねればでてくるもので、水に対してお金を払うのは、産地や成分にこだわった「ミネラルウォーター」という付加価値のついた水を購入するときという認識程度だろう。われわれは、明らかに水を持てる側にいる。公平な水分配を考えるならば、やはりわれわれが豊富に保有している水を水の少ない地域に分けることが必要である。また、水の少ない地域での持続可能な水の利用方法を研究する手助けをすることもできる。そういった地域にない技術を提供することで、より多くの人に必要な水が行き渡らせることにつながるだろう。実際には、このような援助は国家レベルのものであり、われわれが身近にできることはまた少し異なってくるかもしれない。
われわれ一人一人ができることは、やはり節水ではないだろうか。根本的ではあるが非常に重要な行動だ。日本のような水に不自由しない国では、水はあたかも無限に蛇口から出てくるもののように感じてしまうが、水は有限である。むやみに採って用いれば水は不足し、枯渇する可能性さえもあるはずだ。実際、富士山の湧水も水の多量消費により減少している。確かに、ミネラルウォーターは水道水などとはちがい、より体によいのかもしれない。しかし、水を格付けして、ミネラルウォーターや浄水などと水道水を二極化してしまうのは、水そのものの存在の大切さを認識することを忘れさせてしまう危険がある。水道水かミネラルウォーターかという選択は実は非常にぜいたくな選択であると思う。水自体が、生きる上で欠かせないものだと認識し、節水を心がけることで、有限の水を将来まで使えるようにするべきだ。非常にシンプルな方法ではあるが、一人一人の努力によって将来も「水の豊かな日本」、「水の惑星である地球」を守れるのではないだろうか。