「水と人間」
主に水質汚染と渇水について
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 インターネットや新聞を開いてみると、水に関する数多くの情報が取り上げられていた。その内容は、渇水、水質汚染、水産業水揚げ低下、湖、河等々、実に様々であった。更に、これらをみて分かるように、正に我々人間にとって非常に身近な情報ばかりであることも、見のがすことの出来ない大きな注目点である。今回、このレポートでは、主に水質汚染と渇水に焦点を当て、水と人間の関わりを分析していきたい。

 まず初めに、水質汚染に関して、注目すべき二種類の資料をもとに分析していきたいと思う。一つは、秋田さきがけスポーツ新聞社、2003年1月24日付による、上流の沢水に多くの病原菌が発見されたという内容の記事である。上流ほど水がきれいと思われるのに対し、人々の安心感を覆した、ショッキングな実態で、病原菌の原因としては、動物のふんや環境汚染等、様々な要因が考えられるそうだ。二つ目の資料は、奈良新聞による、2002年8月27日付、地下水から発がん物質が検出されたという記事である。ある場所の地下水か、環境標準の3800倍もの発ガン性のある有害物質が検出され、周辺井戸までにも汚染が広がっているという、非常に危険な実態だ。また、過去に漏出したクリーニング溶剤が原因と見られている。更に、奈良県は汚染の事実を公表していなかったことについて、批判を受けているようだ。これら二つの記事を通して分かる問題は、単純に、日本の水質汚濁が進み、それまでは充分にきれいで利用できた水も今では利用不可能になるなど、人間に悪影響を及ぼすようになってきていることである。利用可能な水資源の減少に繋がることもまた、問題である。しかし、こういった問題は、単なる自然の悪戯などではなく、文明化という便利で快適な生活に魅せられた人類が、自ら引き起こしてしまった、いわば自業自得な結末であることにも気付かされる。大昔、人類による文明化が始まる以前、ほとんどの地球上の水は、現在のように汚染されること無くきれいで、豊富であっただろう。しかし、人間が文明化を追い求めた結果として、便利且つ快適な生活と供に浮上してきた負の面が、水質汚染、つまりは環境汚染を生み出したのだ。換言すれば、人間は快適で便利な生活を求めた故に、水質汚染という問題を引き起こした。要するに、自分の行為が結果的に自分を苦しめることになったという、自業自得の他、何ものでもない結末なのである。これから、更に水質汚染は悪化し、安心して水を口にすることが出来ない時代が来るのもそう遠い未来ではないかもしれない。

 次に、渇水について。情報資料は、奈良新聞、2002年7月6日付の、節水対策として、奈良県内で学校のプールや総合プールが相次いで休止されたという内容の記事だ。まず何よりも、学校のプールが休止されたという事実に驚かされた。更に、福祉施設のお風呂も、駅前の噴水も止められたという。これら節水対策による最大の問題点は、ただ単に水不足の深刻化が予想されるのみならず、人々が水に接する機会を大幅に削減されてしまうことである。得に、学校のプールが休止されるだけで子供達は大幅に水と戯れる機会を無くしてしまうのに、更に総合プールまでをも利用できないとなれば、子供達は何処で水と戯れる機会もてるというのだろうか。もし、子供達に水と関わることがなくなってしまえば、自然資源の中で遊ぶことを知らない都会化した子供が増えていくことになる。現在でさえ、外に出ず、家に隠ってテレビゲームばかりで遊んでいる子供達が多いことで問題であるのに、プール休止事態は更に問題を深刻化していくことが目に見える。そして、大袈裟に言えば、最悪の場合、未来では全くプールで遊んだことのない人々が多く存在するかもしれない。更に、自然資源と関わりのなくなった子供達による少年犯罪や、いわゆるキレやすい子も増えていくのではなかろうか。なぜなら、人間は、自然資源と関わってことで優しさや、落ち着き、柔らかさや大らかな心を備えていくのではないかと思うからだ。もちろん、こういった性格を持つのに、必ずしも自然資源が必要であると言っているわけではない。ただ、少なくともその要因の一つとして数えられることは確かなはずだ。このように、水の汚染、渇水という、現在の表面的な問題だけのはとどまらず、その深刻化によって伴う問題の浮上も考えられるのだ。

 これから人類がすべきことは、やはり、水が限りある自然資源であることをしかと心に叩き込み、そのきれいで有限な水を大切に使い、後生にも残していこうという気持ちで水に接することである。得に、廃棄物や有害物質等の処理には経費がかかってしまう難点があるが、だからといって川に流してしまうのではなく、例え費用がかかったとしても、きちんと的確な方法で処理していくこおとが必要だ。そして、水を我が物顔のように、使い放題使おうという我がままな行為を止め、余分な水の浪費をできる限り削減しなければならない。そうすることによって、渇水の危機においても、大幅に水の使用量を制限されることはなくなるだろう。

 

 それでは、実際問題として、現在我々にできることはなんだろうか。水質汚染としては、工場の廃棄物や有害物質の処理管理が考えられよう。更に、我々個々人が実行できる廃棄物の処理方も挙げられる。例えば、台所で出た油物はそのまま水で流してしまうのではなく、新聞紙等、不必要となった紙で一度拭き取って余分な汚れの流出を食い止めることができる。又、空き缶や空き瓶等、ごみの川への投げ捨てを止めることもできる。自分で持ち帰るか、或いは、備え付けのゴミ箱に捨てればよい。節水においても、我々個人で実行できることが数多くある。例えば、台所で洗い物や料理をしている時は、面倒だからといって流しっぱなしにせず、こまめに水を止める。これは、台所に限られたことではなく、お風呂場でも、何処ででも実行できることだ。又、あらかじめ、水の元栓を少し閉めて、必要な量のみ出るようにしておくことも大切だ。

 

 しかし、これら全てに共通し、最も必要なものは、我々一人一人の心がけである。皆が各々、心がけさえ持っていれば、水質汚染や節水は取るに足らない、些細なこととして実行できるはずだ。全ては、ひとり一人の気持ち次第である。そして、人々が自発的にその心がけを持つようになることが一番望ましいのであるが、実際には、誰かがそのきっかけを作らなければならないことも確かな事実である。さて、人々が心がけを持つようになる為にはどうすればよいだろうか。その一つのヒントをある新聞記事に見つけた。それは、奈良新聞、2002年12月24日付の、大和川のクリーンキャンペーンについての記事である。大和川流域の映像を写し出し、同川の絵、ポスター、作文、写真のコンクール表彰式を行い、川の浄化を訴えたそうだ。この他にも、学校の授業で水に関する内容を取り上げることにより、子供達の水に対する意識を高めることもできる。また、小学校や幼稚園ならば、水を題材として小さな劇などをイベントとして開けば、生徒だけでなく、劇を見に来た親達の意識も改善されるはずだ。更に、学校や幼稚園のみならず、地域の公民館等でも同じようなことができる。このように、水に関する情報や、水に対する意識改善を計った行事等を生活の中に取り入れることによって、ひとり一人が心掛けを持つようになるのではないだろうか。大切なのは、ひとり一人のちょっとした心がけである。

 

 

 参考資料

「さきがけon The Web」 秋田魁新報社/秋田さきがけスポーツ新聞社

  2002年10月19日

http://www.sakigake.co.jp/serveletSKINEWS.News.kiji?InputKIJICODO=20021019d

「 News総合」 奈良新聞 2002年8月27日

 http://www.nara-shimbun.com/nall/all2559.html

「 News 総合」 奈良新聞 2002年7月6日

 http://www.nara-shimbun.com/nall/all2369.html

「 News 総合」 奈良新聞 2002年12月24日 

 http://www.nara-shimbun.com/nall/all2369.html

 

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