大運河 「南水北調」
(朝日新聞12/28,日本経済新聞12/28より)
中国では北部地域の慢性的な水不足を解消するため、長江の水を北部都市に流す「南水北調」事業に着工した。中国の水は8割が南部に存在するとされ、北部への水供給は建国当時からの課題であった。既存の運河を利用、着工後10年内に北京などに水の供給を始める予定。
中国と聞くと、長江・黄河という大河があり水不足とは縁がなさそうに思っていたが、実際は深刻な水不足問題を抱えていることを知った。そしてこの「南水北調」は、単に人々の飲み水を確保するためだけではなく、経済発展を進めていくための事業であるということを知った。経済を発展させるには工業の発達が必要であり、工業の発達には水が不可欠なのである。そのために、中国は莫大な建設資金を世界銀行などに援助してもらいながら、この事業に着工するのである。
中国では2030年頃には人口が16億人にまで増加、工業用水の需要も含め7000〜8000億立方メートルの水が必要になるともいわれるそうである。私には想像もできない量で、あまり現実的に考える事ができないが、この想像できないような水量の話を聞いていると不安になってくることがある。その需要に応えられたとして、工業に使われ汚染されてしまった水の行き先は考えられているのだろうか。中国だけではなく、どこにでも共通していえることだが、なんだか供給することだけに注目して、使われた水がまた海や川に戻っていくことを忘れているように感じてしまう。経済を発展させるという目先の利益に執着して、水を汚し、空気を汚染して、自分たちが住む地球にダメージを与えていることを見落としていないだろうか。
水は地球上の限られた資源であって、たえず循環しているものである。水を使うことを考えるとき、同時にその水を海や川に帰すことを考えられるようになりたい。私達にできるのは、洗い物をするときに、油の汚れをできるだけふき取ってから洗うとか、そんな小さいことしかない。でも、一人ひとりが意識することが、社会の意識を変えていくきっかけになると思う。
時代が求める温泉力
(日本経済新聞12/28)
400年前、徳川家康が病に伏せた吉川広家に、忠勤してくれた恩に報いるため、熱海の湯を贈った。彼らの時代から温泉は命を再生する水であり、日本人のDNAにはそういった情報が刷り込まれている。今の不安な世の中でストレスを抱えた人達は、日本的なものに安らぎを得る。日本人であるということを再確認する作業が、至福の瞬間なのである。それが“平成の温泉ブーム”を生み出した。その中で、黒川温泉は風呂に専念できる雰囲気を持ち、湯浴みの原点を気付かせてくれる。お湯そのものを意識することができるこの温泉は、“温泉力”を持っているといえる。
この記事によると、黒川温泉には都会の人を癒す素朴な田舎の風景がある。そして「ゆったりとお湯に浸かり、肌との相性を推しはかりながら湯浴みを味わう」ことができるそうである。
私は温泉と聞くとまず、ゆったりしたイメージを思い浮かべる。日常生活から離れるのだから、ゆったりできるのは当たり前なのかもしれない。次に思い浮かぶのは、温泉にはなにか、人を元気にするパワーがありそうだということだ。「肌にいい」、「神経痛に効く」、「肩こりが治る」・・・というような、身体的な効果を期待して行く人は多い。しかしそれ以上に、温泉に入ると「気持ちがいい」、「癒される」、という“心への効果”も、実はとても大きいのではないかと思う。
温泉につかるだけで、なんでそんな効果が得られるのか不思議に思う。体が暖まるからリラックスできるのだろうか。しかし同じように体を暖めてくれる砂風呂やサウナでは、温泉ほどの“癒し”効果はないような気がする。やはり、日本人であるというDNAがそうさせているのだろうか。それともなにか科学的な根拠があるのだろうか。いずれにしても、温泉は私達を癒してくれる、不思議な水である。
カナダ 海が巨木の森を作った
(NHK教育 19:30〜「地球・ふしぎ大自然」 1/13より)
海のなかで生物が死ぬと、窒素とリンが海底にたまる。季節風の海流への影響と、地球の自転が湧昇流をひきおこし、その湧昇流が海底の窒素とリンを水面に運ぶ。窒素とリンはプランクトンのえさになり、大量のプランクトンを発生させる。このプランクトンを食べたサケは、“窒素15”を持っている(窒素15は生物を育てる養分になるが海にしかない)。このサケが川を上り、クマに食べられる。クマはサケの腹の部分だけ食べるので、他の部分は死骸として森の中に残る。そしてこのサケの死骸のもつ窒素15を養分にして、木はよく育っていく。そして巨木の森林ができるのである。
なぜ、海が海から離れた山のなかの巨木の森を作ることができたのか。最初はなんの関係も思いつかずに戸惑った。よく成長している木から、海にしかないはずの養分が採取され、それがサケによって運ばれたものであるということがわかって、謎が解ける。順を追って見ていけば、ごく自然な流れがそこにあった。サケが多く捕れる年は木もよく育つそうである。遠く離れて、まったく別々のものに見える海と森が密接に関係している。自然界はつながっていて、それはとぎれることなく、ひとつの輪になっているのだなと感じた。
現在人間は、いろいろな方面から、このひとつの輪を壊そうとしている。魚の乱獲や、森林破壊、大気・海洋汚染などである。自然は自らの世界を一定に保てる能力を持っているのに、ヒトの活動がそれを超えてしまっている。人間が地球上で生きていけるのは、自然があるからであって、これがなかったら私達は存在できないはずだ。そのことを忘れがちな人間は、豊かになる事を追求してばかりいる。しかしこれからは、豊かになるためにではなくて、汚してしまった空気・水・木のために、何ができるかを考えなくてはならない。