水を無駄使いしていないか?
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現代社会に於いて、科学の進歩は目覚ましいものがあり、それが当たり前となっているが、それと同時に水に関する問題も深刻化して、自明の事として叫ばれている。しかし、当たり前すぎるが故に、我々は今その重大性、重要点などを見失いがちではないだろうか。

 

僕が日常生活を送っていて個人的に思うことをまず挙げてみたい。家にいても、学校にいても、他のどこかへ出かけた時も、水の一度の大量放出や、出しっ放しをはじめとする無駄が目立つ。しかし、それを気にとめる人がどれくらいいるだろう。

 とにかく裕福な状況にいる人間ほど、無駄には疎い気がする。これはもはやほぼセオリーとなっている。基本的に金のあるところにみんな流れていくもので、それは水とて例外ではない。そして裕福なところほど、消化不良で金や水をはじめとする資源の浪費が盛んに行われる。実際、世界の二割の人間が八割の富を所有し、残りの八割が残りの二割の富を分け合っているというのは有名な話だ。話が水から拡大しているが、これは決して脱線や蛇足ではない。水問題を考えるにあたって、水意外のことを視野に入れることは極めて重要である。なぜならば、水こそはこの地球という惑星を構成するにあたって最も重要な物質であり、それゆえに地球上のありとあらゆるものに深く関わっているからである。水が全くない地球など想像できるだろうか。水道をひねっても水などないから手洗い歯磨きうがいなど一切できない。工業製品の多くも精製過程に於いて水のお世話になっているから、生産不可能か、少なくとも大きな支障を来す。風呂や洗濯、洗車に始まる手入れもできない。これは外側の話。それにこの程度だと不便ですむからまだいいが、もっと大事なこと。人間そのたあらゆる生物にとって、水はかけがえのない構成要素である。つまり地球が地球である限り、水の存在しない地球などありえないのだ。これほどまでに深く地球に根ざしているのに、いやだからこそ、人間はその重要性を軽視しがちではないのか。

 例えば、学校のトイレで、水が出しっぱなしだったり、電気がつけっぱなしだったりするとする。水は無駄に下水処理場へ流れ、循環する。下水処理場は元の自然な水に戻す施設ではない。ただ、汚物を塩素などで消毒、処理するだけである。つまり下水処理場が稼動すればする程、自然な水は減っていく。ちなみに出しっぱなしからはそれるが、逆にオーストラリアやフランスなどの下水処理のずさんな場所では、そのまま直に川や海にダメージがいく。そして電気がつけっぱなしの場合、その電気はどこからうまれるのか。現在の主力発電方法は水力火力原子力であるが、いずれも科学的で、不自然な発電方法である。原子力はもともと自然界にそのままでは存在しないはずの放射性物質を利用、排出するため、物凄く不安定で危険だし、火力水力は大気や水を汚す。そのうえこうした発電所の建設自体が環境を大いに破壊し、自然界のバランスを崩す。つまり、水の活動バランスも崩れるということである。人間金があるとすぐ無駄遣いする。政治家や役人や建設業者のトップらは、無駄にダムやら発電所を作って自分達だけ金を儲ける。このような無駄の循環が延々と繰り替えされる。

無駄が無駄を引き起こす事例はそれこそ枚挙に暇がない。先進国、特に狭い日本では"必要"ではないマイカーをはじめとする多数の車や、工場から躊躇なく排出される煙などによって、大気が汚染され、結果酸性雨を招き、動植物や文化遺産などを容赦なくいたぶる。それは、貴重な動植物や建造物などが損なわれるという文化的損失だけでなく、そうした生き物を傷つけるということはつまり食物連鎖をはじめとする自然の営みを狂わせる。良く知られているように、アマゾンの熱帯雨林は地球の肺と称されるように、多くの二酸化炭素を取り入れ、酸素を排出しているが、その仕組みは非常に緻密でデリケートであり、一つ何かが崩れれば、他も大きな損害を被る。その結果熱帯雨林がなくなるとすると、肺を失った地球はどうして呼吸ができるだろう。さらに、森林が損なわれると、洪水や干ばつ、砂漠化などが誘発される。それだけでなく、工場や車から煙と同時に排出される二酸化炭素が地球温暖化現象を引き起こし、南極や北極の氷を溶かし、海面を上昇させる。あともう一メートルでも水位が上がろうものなら、関東平野はほぼ水浸し。酸性雨も海面上昇も深刻な水問題だが、その原因は科学の無駄が引き起こした大気汚染である。またそれによって洪水や干ばつなどの水に関する害が更に誘発されうるのである。

 多少わかりにくい説明かも知れないが、少し考えれば、少しの無駄が大きな無駄を生み、それぞれがお互い関連していることは誰でもわかるはずだ。

 しかし、人間とは実に不完全な存在で、無駄の全くない人生を送れる可能性など皆無に等しい。殊にここまで文明、科学が進んでしまっては。人文的な余談だが、人間によって築き上げられてきた文明、科学はいってしまえば全て無駄である。無駄とは、辞書によれば役に立たないこと、益のないこと。今の文明、科学をそのように見て取ることは容易ではないかも知れないが、それは明らかに人間の価値観であり、そこから一歩はずれて考えて、無駄でないものを地球という生命を維持するのに必要なもの、無駄なものを必要無いものとした時に、人間の所業の多く、文明、文化、科学などは無駄ということになる。だから存在しなくていいということが言いたいわけではない。ここまでして再び原始の世界に無理に戻すことはかえって無理で、無駄で、必ずなんらかの歪みが生まれる。ではどうすればいいのか。

 答えは簡単である。無駄を減らすのである。無駄にまみれた意識を個人一人一人が改め、実際に努力していく。ただし、答えは簡単でも、それを実行に移すことは意外に難しい。だから、自分だけでなく自分以外の存在にも目を向け、気を配ることも大切である。具体的には、先ほどの軽いことと思われるトイレの水の出しっ放し、電気のつけっぱなしをやめる。もし誰かがうっかりしていたら、自分がフォローしてあげる、が第一歩だろう。

 他にも実に簡単なことで水に優しい、つまりは環境に優しい生活を送れる。歯磨きや洗顔の際、水を出しっ放しにせずコップや洗面器に水をためて使う。風呂は共同生活者とまとまった時間に入る。お湯も溢れる程入れない。風呂の残り湯を雑巾がけや洗濯などに使い、最後は庭などに撒く。また、食事の時も出されたものは残さず食べる。残すと言う行為は、その食物自体を無駄にする、つまりその食物の精製に使われた水も無駄にするだけでなく、それを処理したり、食器を洗うための水も無駄にすることになる。ケチャップやドレッシングなどの味付け小物も沢山皿に出し過ぎないようにし、全て食べ終わった後にはパンなどで皿を軽く拭き、洗う時もお湯で食器を三分程つけてから石鹸で洗えば、汚れはほとんど落ちるし、水も大して汚さず水の消費も少なくすむ。米を磨いだ後の養分の多い水を植物にやるのもいい。残り物の水は植物の養分となるだけでなく、周りを涼しくする効果もあるらしいから、冷房の節約にもなる。周りに緑があって、風通しが良ければ、クーラーはいらないのだ。電気を節約すれば間接的に水も節約される。水力だけでなく原子力も原子炉の冷却に水を使う。ゴミも節約すれば、元の物を作るために使われる水も節約される。こんなに簡単なことを少しずつ続けるだけで、大きな節約になる。

 他にも今ある発電の代わりに、ベストミックスと呼ばれる、ソーラー、風力、潮力、地熱、核融合、天然ガスなどの自然のエネルギーによる、安全で無害有益な発電方法の組み合わせを駆使すれば、火力水力原子力発電はいらなくなる。

 水問題を大きな規模のみで考える人も多いかも知れないが、結局大問題も小さな問題が積もり積もってなった場合がほとんどである。巨大隕石だっていきなり何の根拠も原因もなく地球に衝突したりしない。だから、身近な小さな問題からみんなで少しずつ解決していくことが大事だ。そして先ほども述べたように、地球上のあらゆるものはお互い繋がっているのだから、水問題を水だけの問題として他から切り離して考えることも間違いである。このレポートを書くにあたって僕は別に新しいことを述べた積もりも奇抜なことを述べた積もりもない。むしろごく当たり前のことばかりである。しかし当たり前の事が当たり前の事として忘れられがちな今だからこそ、それを再考して再確認してみたいと思った次第である。

 

参考文献

 

水問題を考える http://www5.justnet.ne.jp/~soho.fuji-u/water.htm

水環境の保全に関する施策 http://www.emecs.or.jp/99cd-rom/file/chap2/

どらえもん地球人パスポート 小学四年生九月号付録

どらえもん不思議科学館 小学五年生六月号付録

 

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