日本人と水

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 私達はよく、水に関係することばをつかっています。考えつくだけでも、「水に流す」、「水くさい」、「水いらず」、「水を差す」、「水掛け論」、などがあり他にもたくさん、日本語においての水にまつわることばはまさに、「湯水のごとく」存在するのです。

これらのことばたちにはそれぞれ由来があり、それらひとつひとつを知ることで、我々日本人がもっている文化、我々の祖先が水に対して、どう接し、どう考えてきたかを知ることができます。

 たとえば、「水に流す」ということばは、過去の清算をするときに使う言葉ですが、この言葉を見ると、水は古来の日本人にとって都合の悪いものや汚いものを流しさってくれる、ありがたい存在であったことがわかります。この考えは、「禊」という日本古来の風習を見ても分かります。「禊」とは、聖地や清まった場所に入るときなどに水をかぶり、己が犯した罪などを洗い流し自分を清めることです。つまり日本人にとって水は、自分の罪でさえ洗い流してくれる万能なものでもあるのです。

 ところで、なぜ日本人は、水に流すことを好むのでしょうか。それは、日本の稲作文化に由来しています。昔、米づくりは村の共同作業であり、人々は水田に引く水を共同で管理し、手が足りないときはお互いに助け合って暮らしてきました。農村を維持するためには「お互い様」の気持ちがとても大事で、何か問題が起きてもお互いに譲歩し和解してきたのです。この精神が「水に流す」という表現の元なのです、争いを好まず、事なかれ主義で相手に対して寛容である、つまり日本人は穏やかな人間関係を美徳とする民族であることもこの「水に流す」から読み取ることが出来ます。

 日本人にとって、水は生活のために必要な自然であると同時に神様でもあります。

 水は大気と同じように絶えず流れ形を変えており、捉えがたく漠然としたものです。その水が大きなエネルギーを持ちその姿を人の前に現したとき、日本人はそれに畏怖の念を抱き、それそのものを神としてあがめ、信仰してきました。それの代表的なものが滝信仰です。和歌山県那智勝浦町にある那智の滝はそれの代表的な例です。この那智の滝は、熊野那智大社のご神体として太古からそれ自体が神としてあがめられており、その滝の周りは昔から聖域であるとされてきました。昔から人がその聖域に入るときには、禊をし、自分の穢れを水で落とさなければ入ることを許されませんでした。この那智の滝の周りでは、昔から水にまつわる一種の宗教世界が形作られてきたのです。つまり日本人は、水と生活していく中で、水を信仰の対象として、畏れ敬うという一面もあったのです。

 今、我々日本人は、「水」と言う単語を聞いて、何を感じるでしょうか。それが神様だといわれても、ピンとはこないかもしれません。それは今では、蛇口をひねれば出るものであり、また、そこでしか触れる機会がないものへと変わりつつあります。我々は、水の風景というものをなくしてきました。その結果、水が大地の産物であると言う実感からどんどん遠ざかり、両岸がコンクリートで固められ、川底に自転車や廃棄物があるような川も、いまや珍しくありません。その川はかつて神様と呼ばれていた時代もあったかもしれないのに。 日本の中でも一番降水量の多い地域である熊野でも、水信仰の象徴である那智の滝の水量が上流の森林伐採のために少なくなりつつあり、風に滝がなびいてしまっている姿をよく見かけます。それは泣いているように見えます。我々は水をただ守れと言うのでなく、水と接する機会を増やし、考えなければいけません。水はただの資源ではなく、日本人の精神の一部なのです。

 

水の資料館

http://www.water.go.jp/referenc/top.html

熊野那智大社

http://www.kumanonachitaisha.or.jp/top.html

水の神様館

http://homepage1.nifty.com/shincoo/m230kamisama.html

 

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