綾瀬川(埼玉県)

 

 私の育ったすぐ近くには、伝右川と綾瀬川が流れています。本当は伝右川が綾瀬川の支流ですが、互いに近くを流れており、市民の間では区別せずに一つの川として扱われています。私の故郷の草加市は、川がとても身近な町であるために、区別されずに語られるのだと思います。以下で考察しますが、川は土地の環境や産業などに大きく影響されるため、近くを流れる川は似た諸相を帯びるのだと思います。そのため、ここでは伝右川と綾瀬川を一緒に論じても差し支えないと考えました。私自身、二つの川を区別してこなかったので、そもそも区別して語ることができません。

 

 お正月に帰省した際、伝右川を見てきました。水はくすんだ緑色をしていて、とてもきれいだとはいえない状態でした。ただ、私は小さな頃から伝右川を見てきており、過去と比較するとだいぶきれいになったのだなぁと、少し安心しました。私が小学生の頃は、川はヘドロだらけで、流れがありませんでした。だから、川に水があり、流れているというだけで、前よりはマシと思えてしまうのです。

 

 それでは、昔はどんな川だったのでしょう。私と川のこれまでの関わりを振り返りながら、見て行きたいと思います。まず、私が通っていた保育園は、伝右川のすぐ目の前にありました。だから保育園の散歩と言ったら、必ず川沿いを歩くことになりました。今でも忘れられない保育園時代の思い出があります。私の地元であまり見かけることのない蛇が、散歩に行った際に伝右川にかかる欄干のような細い橋(人間が渡れる太さではありません)の上を這っていました。子供が騒いだので、保母さんが蛇を捕らえようとして、川のフェンスを越えて、その欄干の上に降りたのです。子供心にすごく危ないと思い、とても心配しました。今考えると、本当に保母さんがそんな危険なことをしたのか、記憶が疑わしいのですが、当時の私がとても怖い思いをしたことは確かです。

 

 小学校に上がった後も、毎日学童保育に通うため、伝右川を渡っていました。その頃は川の汚れが一番ひどかった時期で、川にはヘドロと投げ捨てられたゴミしかありませんでした。自転車がよく捨てられていて、驚きつつも、どうしてこんなことをするのかが理解できませんでした。草加に住んでいる人間なら、絶対私たちの伝右川に自転車を捨てたりするはずがない、と悲しくなった記憶があります。今でもそういう行為は理解できません。しかし、ヘドロだらけの川に水が流れる時が年に何回かありました。それは大水の時です。小学二年生の時、台風が来て伝右川があふれてしまいました。その日は楽しみにしていた学童保育のパーティーの日で、大水のせいで中止になってしまいました。先生がパーティーの用意をしてくれていたのに、そのまま中止になり、とても悲しい思いをしました。

 小学校高学年になると、足を伸ばして少し離れた市立図書館に行くようになりました。図書館に行くためには、綾瀬川沿いを自転車で走ります。そのあたりの川沿いは、江戸時代の街道(草加は宿場町で、「奥の細道」にも登場します)の名残を残しており、松が植えられていて、「松並木」と呼ばれています。その松並木は草加のシンボルで、「草加市民まつり」は松並木で毎年行われます。5年生か6年生の時の市民祭りに行った時は、川岸まで降りて、友人とアイスクリームを食べました。その時に、「綾瀬川・伝宇川は日本一汚い川からワースト3位になりました」という旗を掲げた船が、私たちの前を通りました。川がきれいになってきたのは嬉しかったのですが、ワースト3位になったことが自慢できてしまうほど汚い川が悲しくなりました。目を波打ち際に寄せると、魚の死体が打ち上げられていました。魚がこの川にもいるなんて、と自分の目が信じられませんでしたが、やはり汚すぎて生きていけないのだと、がっかりしたのを覚えています。しかし、松並木周辺ではたくさん遊びました。やはり小学生にとっては松並木まで行く(家から自転車で15分程度)ことはちょっとしたお出かけであり、休みの日にお弁当を持って松並木まで行くだけで大イベントでした。また、草加には子供が遊べるような広場や空き地、野原があまりないため、私はのびのびと遊べる広場に憧れていました。松並木には、クローバーの生えた広場(いささか人工的ですが)があり、私はみんなに内緒で図書館に行き、その帰りに一人で広場を独占したような気持ちで、そこに寝転ぶのが好きでした。図書館で借りてきたばかりの本を読んだり、四葉のクローバーを探したりしました。何故か広場には四葉のクローバーが群生していて、押し花にしたりして宝物にしました。ただ、寝転んだときに「最高に気持ちがよいけれど、目に入ってくる綾瀬川がきれいだったらどれほどよいだろう」と何度も思いました。

 

 中学校に入った後は、ほとんど伝右川の方には行かなくなりました。図書館も改修工事が始まり、本が借りられなくなったので、松並木にも行かなくなりました。しかし、「日本一汚い川」が流れる町に住んでいると、川のことが問題意識にあがらずにはいなくなります。中学一年の時は、文化祭で環境問題を扱うことになり、自然と私たちの問題点は川へと集約していきました。やはり草加に住むものとして、環境として連想するのは川なのだと思います。市役所に資料をもらいに行ったところ、川が汚れる一番の原因は、生活排水だということを知りました。そこで、川を汚さないための暮らしの工夫などを調べて、展示を行いました。

 高校生になった時、図書館が新しくなり、回数は減ったものの松並木に再び行くようになりました。トランペットの練習をしに、例のクローバーの広場にも何度か行きました。土手で楽器を吹くのに憧れて、まねをしてみましたが、そもそも松並木は土手ではないし、やはり川が汚いので、イメージどおりには行きませんでした。

 

 大学に入って武蔵野に越してきた時、野川や玉川上水がきれいでショックを受けましたが、やはり私の原風景といえば、草加の伝右川・綾瀬川と松並木なのです。

  (上で述べたように、私の母も伝右川と綾瀬川を同一視して話しますので、文章中の「川」がどちらなのかあいまいなところがあります)

そんな「ワースト1」の伝右川・綾瀬川ですが、昔はとてもきれいな川だったようです。母に昔の様子を聞いてみました。母が子供だった頃(40年前)は、まだ伝右川も綾瀬川もきれいでした。おば(母の姉)は理科の時間に、綾瀬川まで行ってシジミ取りをしたり、夏休みには水遊びに行ったそうです。その頃は、ちょうど日本人の生活スタイルが変わろうとしていた時期でした。母が外に遊びに行くようになった頃には、もうすでに市民プールが登場し、川に遊びに行かなくなっていました。少したつと、草加からどんどん田んぼが減り、その代わりに住宅が増えてきました(都心通勤圏のため)。同時に、洗濯機や家庭用風呂が登場し、輪をかけるように生活排水が増えてきました。とどめをさすように、それまで水道水として使っていた地下水が、地盤沈下で汲めなくなり、水道水は川からひっぱってくるようになりました(伝右川・綾瀬川ではありませんが)。だんだん川が汚くなってきたなぁ、と市民が気づき始めるまで、大して時間はかかりませんでした。私が生まれた頃には(20年前)、すでに伝右川は「日本一汚い川」として認識されるようになっていました。昔はなかった、ひどいにおいが川から漂ってくるようになりました。ヘドロのせいで、水が少ししか流れなくなり、大きいごみがみえるほどでした。その20年前にはシジミがとれるほどきれいな川が、たったの20年で「ワースト1」になってしまったのです。草加は皮革や染物が主要産業の町です。皮革も染物も、洗浄のために大量の水を必要とします。もともと工場の排水で川が汚れやすかったところに、生活排水の急増で川が一気に汚されてしまったのが、この大変化の原因だと母は考えているそうです。現在は堰ができたため起こらなくなりましたが、その頃は台風でも来ようものならすぐに床上浸水・床下浸水がおこり、避難するのがしょっちゅうでした。草加は低湿地地帯(草を加えて土地を作ったから「草加」なのです)で、特に綾瀬川は低いところを流れています。綾瀬川と伝右川がちょうど接近する松原団地地域では、大水の際に電車通勤・通学の人がズボンをひざまでまくって歩いていたり、ボートで非難したりと大騒ぎになり、そういった類の映像が、毎年必ず地元のニュースで放映される始末でした。しかもそのたびに、周辺地域にはヘドロが撒き散らされていました。母が記憶している一番ひどかった大水は、ちょうどその頃(17年前)のものでした。母は当時、伝右川から1km以内の小学校に勤めており、学校の一階部分が浸水し、児童の通信簿が全滅したそうです。教員の間では、自分の家を救出するか職員室を守るかの騒動がおきるほどで、壁に最高水位の印をつけたら、教員用の机をはるかに超えて、床から1m以上になっていたそうです。その日の登校時は普通の雨足だったにもかかわらず、11時頃には一斉下校になりました。小さな新入生たちは、私が当時通っていた伝右川前の保育園の前を胸まで水浸しになって帰って行きました。母親が私を迎えに来たとき、私が母の自転車の後部座席に乗って何とか溺れずに保育園の前を通れるかどうか、というくらいに川が氾濫していました。さすがに私もその時の記憶が残っています。話が終わったところで、母に、川についてどう感じているか聞いてみました。「川をきれいにするプロジェクトでだいぶきれいになったけど、まだまだきれいな川とは呼べない。いったん汚したものを再びきれいにするのはいかに大変か、ということを思い知らされた。あなたたちはきれいな川を知らないから、きれいな水を見てほっとする経験がないでしょう。だから、なんだか気の毒に思う。」と言われました。

 綾瀬川に関するプロジェクト、というのを母の話ではじめて聞いたので、インターネットで調べてみました。私の知らないことがたくさんでていたので、以下「綾瀬川清流ルネッサンス地域協議会」のホームページの情報を要約してみました。

 

 綾瀬川の基点は、桶川市の田んぼの落ち水です。桶川からさいたま市、草加市と足立区を通り、葛飾区で中川に合流します。江戸時代に大規模な改修が行われてからは田んぼの用水として、または穀物を江戸の運ぶための水運として活躍しました。そのときに設置された河岸の名残が、松並木です。綾瀬川は田んぼの落ち水と生活排水からなっているので、お米を作らない冬の時期は水量が減り、生活排水しか流れなくなります。このようにして、川が汚れてしまうのです。11年前から、「綾瀬川清流ルネッサンス21」というプログラムが始まり、下水道や浄化施設の整備などを通し、17年間で水質汚濁を1/5まで減らすことが出来ました。市民も積極的にこのプログラムに参加しています。(http://www.ayasegawa.com)

 

 これまで、川について調べたり、振り返ったりしてきましたが、私がこのレポートを書くに当たって考えるようになったことをお伝えしたいと思います。私の中では、二つの川は草加のシンボルです。「ワースト1」なんて恥ずかしい、ただのどぶ川じゃないか、何度もそう思いながらも、例えヘドロの悪臭が漂っていようと、私の故郷を流れる愛おしい川なのです。なぜなら、川たちは私たちの町を流れるが故の宿命を負ってくれているように感じるからです。東京23区に隣接するが故の過密地域であり、皮革と染物の伝統産業を持つ低地の町、草加。川が汚されてしまったのは、こういってしまうのは単なる人間のエゴだと思いますが、土地の宿命であったように感じざるを得ません。私たちの生活を沈黙のうちに見守り、その汚れた部分を一人で背負ってくれた存在。私は、草加の川を愛しています。おそらく、同じように感じている人は多いと思います。だからこそ、ここ10年間で川をきれいにしようというプロジェクトが始まり、やっと川に水が戻ってきたのです。一時期、あまりにも汚いので川を埋め立ててしまおうだとか、コンクリートの覆いをつけてしまおうという議論がありました。それはあんまりだと思う人が多かったのか、今も川は流れています。つまり、多くの市民は今まで一緒に生きてきてくれた川と、これからも一緒に生きていく道を探したいと思っているのではないでしょうか。汚い川だからといって、愛されていないわけではありません。汚い川だけれど、みんな愛されているし、汚いからこそ愛されているとも言えると思います。川は涙も流さずに、ただただ私たちの暮らしに寄り添ってきました。今度は私たちが、川の代わりに涙を流し、川に寄り添う時がやってきたのだと思います。正直なところ、川がどこまできれいな状態に戻るかも分かりません。みんなが望むような美しい川にはおそらくならないでしょう。40年前に伝右川・綾瀬川を支えていたような、田園地域に草加が戻ることはありえません。だから、川だって40年前の状態に戻りえないのです。しかし、それは関係のないことです。きれいだろうと汚かろうと、川は草加の人々の原風景であり続け、愛され続けるでしょう。いつまでも、私たちの愛する川が川であり続けられるように、私たちは川を守っていこう、できるかぎりきれいにしていこう、と働きかけていくでしょう。私は、川が草加の人々を愛する、そして人々からも愛される存在でありつづけて欲しいと思っています。

 

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