2003NSIII 「自然の化学的基礎」 

 高校生に水を語る

―生徒諸君。最も親しいのに最も知らないものって、な〜んだ?―

                                    匿名希望

 

設定:Dr.ヨシノより、「高校生に水について話していらっしゃい」とのミッションを受けた私は、高校生諸君が待ち受ける教室へと向かった…。

 

(森山直太朗『太陽』の節で)〜♪ちょっと水について語らせて〜、今、聞いておきたいことがあるぅ〜♪。

 というわけで、質問です。水というものを表現してみて欲しい。…なるほど、皆さんから出た意見を極端にまとめてみると、「水は無味、無臭、無色透明で、物理・化学的に特に注目すべき特徴もない。しかも、この地球上のどこにでもある最もありふれた物質だ」といったところかな。確かに科学的に言えば、無味、無臭、無色透明という特徴は、ある意味真実かもしれない。しかし人間には(人間に限ったことではないかもしれないけれど)、五感+αで物事を感じとるという素晴らしい能力がある。水というものは、あまりに当たり前のように存在していて、それ故さっきの反応のように、「特徴のない、ありふれた」ものだと感じられるのかもしれないね。

 諸君は高校生だから、これまでの学習で、水の科学的な性質や水をめぐる環境問題や社会問題にも接してきたことと思う。周知の通り、私たちは深刻な水問題を抱えており、将来は水を巡る戦争が起こるだろうといわれている。でも、そういう話はきっと沢山聞いてきて、逆に感覚が麻痺してしまっているということもあるかもしれない。現に私がそうである。それらの問題が非常に重要なのだろうとは理解しているはずなのだが、どうも今ひとつピンと来ない。水不足も水戦争も、どこか遠い所で起こっているような…。こんな調子であるから、今日は、もう少しミクロな視点、つまり自分自身の感覚で捉えられる範囲で水を認識するところから出発し、私を含め、諸君一人ひとりが、今より少しでも水のことに思いを巡らせるきっかけにしたい。

 

 初めに、またまた質問。漢字の中で最も多く使われる部首は何だろうか?正解はサンズイ。小さな辞典でも250字程はすぐに出てくる。また、水を使った諺も相当な数がある。ちょっと思い出すだけでも、「水に流す」「我田引水」「水清ければ魚棲まず」などなど。これらは暮らしと水の深い関わりを表す良い例だ。地名もまた然り。地名をみればその土地の歴史が見えてくるというね。世界史で習ったであろう、4大文明はいずれも大河沿いに発生した。この辺は私の好きな文野なので少々語らせて欲しい。いち早く牧畜、農耕が始まったティグリス・ユーフラテス川の流域は、古代ギリシア人達が、メソMeso(間)とポタムPotam(川の)の地名に接尾辞をつけて「メソポタミア」と呼んだ地であるらしい。ユーフラテスEuphratesは、川幅の広い“穏やかな流れ”、対してティグリスTigrisは“矢のように流れが速い川”を意味した。中国の黄河・長江は漢字からその性質を察することが出来るだろうから(できるよね?!)省略する。「エジプトはナイルの賜物」って覚えさせられたナイル川は、古代エジプト語。国土を流れる川はたった一本、しかも下流のデルタ地帯に至るまで支流が一本も無く、川を呼び分ける必要が無かったんだな、なんとナイルとはイル(川)に冠詞が付いただけ。つまりそのまんま「川」という意味。同様にインダス文明をもたらしたインダス川も、サンスクリット語で川を表すHinduがそのまま川の名前になった。面白いことに、世界各地の主要な河川ほど、ただの「川」を表す言葉がそのまま川の名前になっている(例:ライン、エルベ等)。昔から、人間がいかに水と深い関わりを持って生活し、そしてそのことを認識していたかが窺えるだろう?ついでながら、フランス語でMer(海)と Mere(母)は、綴りは違うが発音は同じだ。母なる海という認識があるのかもしれないね。

 

 では次に、五感を使って水を捉えてみよう。「水を描いてみなさい」といわれたらどう表現する?難しいね。それじゃあ、「水を詠ってみなさい」といわれたら?これまた色んな方法があるね。水はあまりに「ありふれている」と思えるほどに身近なものだから、よくラヴソングにもあるように「近すぎて見えない」のかもしれない。しかし、この親しい存在を敏感に感じ取り、見事に表現してきた先輩たちが沢山いるので、今日は彼らの助けを借りることにしよう。

@視 覚

初めの質問に対して、水は無色透明という答えがあった。確かにH2Oそれ自体は透明に見える。では、あの薄い青色の「水色」って何だろう?一般的に水を表すにはその水色とやらを使用することが多い。波長の関わりで、海などは大抵青っぽく見えるから、間違いというわけではない。しかし、私は高校生の時、朝から一緒に写生していた友達が、夕暮時に、それまで青で塗っていた海を一気に黄色で塗りつぶしたのを目の当たりにした。びっくりした。黄色い海だ。確かにそれは黄昏時の気だるい海を見事に表現していた。その夜の批評会で、その絵は「浮いている」だのと文句をつけられていたが、私は今でも彼を尊敬している。あの海は黄色でしか言い尽くせないものだった。水は無色透明だが、実は彼は凄い役者なのだ。どんな色を演じられる。モネという印象派の画家の、睡蓮という一連のシリーズを見て欲しい。気候や時間帯、光によって刻々と変化する水の姿が描かれている。グリム童話の『漁夫とその妻の話』にも、人間の傲慢さが激しくなるにつれて、荒れていく海の様子が描写されている。初めは「たえず、鏡のように、ぴかぴか白光りする」海が、やがて青、黄色、そして紫や灰色に腐ったような臭い、そしてさらに真っ黒になり、高波が立ち、泡が沸きかえるという恐ろしい姿になる。視覚による水の表現は興味深いものがまだ沢山あるが、このくらいに留めておこう。いずれにせよ、我々は水の本当の色を捉えることが出来ないのかもしれない。そもそも本当の色など無いのかもしれないが。我々の認識によってしか水の色は捉えられない。水は、我々の内面を映し出す鏡なのかもしれない。

 

A聴 覚

 いつ頃からかヒーリング・ミュージックというものが好まれているが、その類のCD等には必ずと言っていいほど水、波の音もしくはそれらを連想させる音が含まれている。貴方たちの中にも、勉強の合間に聴いてリラックスしている諸君もいることだろう。私は昔、ショパン作のピアノ曲『雨だれ』を演奏中に何とも言えずよい気分になり、トロ〜ンとし過ぎ、ピアノの先生に注意された。『雨だれ』でなくとも雨の日は、雨音を聞いているだけで落ち着くだろう。雨だれと言えば、今降っている水は太古の水と同じだなんて、信じてもらえるだろうか?地球上の水の総量は不変だといわれている。ということは、水の量には限度があるということになる。水は一定の量しかないのに、人口の増加、使用量の増加によって需要ばかりが増大し、さらに汚染によって水から使用可能な水を減らしてしまっていることが、実は予想以上に深刻な事態だと感じられないだろうか。

 ここで話を聴覚に戻そう。私は雪国で育ったが、雪(雪もH2O)の音もまた心を鎮める。正確には雪に音は無いのかもしれないが、「しんしん」とはよく言ったもので、そのような感じである。そして雪は全ての音を飲み込んでいるかのようであり、雪降る様子は実に静かなのだ。また、山の中などを歩いていて、小川や滝の音が聞こえてくると、妙に嬉しくなる。「ああ、水がある」と安心する。この感情は、歩き続けて熱り、疲れた体を水の音が癒してくれるという効果意外に、水の音自体が、生命の音だからだと思う。水はまさに我々の命綱だ。人間の体の約約60%は水であり、たった1%の水分が失われただけでも喉の乾きを覚え、12%の水分を失ってしまうと死んでしまう。身体で水を含まない部分は何ひとつ無い。私に水の不思議を教えて下さったDr.ヨシノの言葉を借りると、「身体は水の部屋(細胞、組織)と、水の流れる輸送管(血管)で結ばれた一大生命維持装置」である。それゆえに、水の音はまさに、生命の維持(水の存在)を確認できるサインであり、それが我々に安堵を与えていると考えられる。

 そうそう、髪の毛も水分が不足するとパサつくし、小じわも、細胞内の水分の減少によって皮下組織が縮んでしまうことなどが原因だし、諸君が悩む吹き出物も、水分の新陳代謝がうまくいっていない証拠なのだ。メイクしている女子諸君も多いようだが、いいですか、何よりも血液が乱れることが美容の最大の敵。皮膚をつくっている要は赤血球だから、きれいな血液(血液の90%は水!)こそが美しい肌を作るのである。部活動に精を出す諸君も、パワーの源は肉ではなくて、水の方が重要。くれぐれも水分補給を忘れずにね。聴覚から話が逸れてしまったが、水が様々な面で我々の生命に結びついていることが分ったのではないかな。脱線ばかりでごめんなさい…。

 

B蝕・味・嗅

 触覚で水を表現するとどうなるだろう。冷たい、温い、熱い…。突然だが諸君は、外国で“Japanモと称される日本の代表的な伝統工芸をご存知だろうか?漆器である。その漆の語源は「潤う」とも「麗しい」ともいわれるが、漆器を一目見たら恐らく納得するだろう。しっとりとした情緒的な特徴を良く表現している言葉だと思う。そういえば、ゲーテの詩に「深い静寂が水を領し、海は死んだように動かぬ、とろりとした海原のただ中(以後、略)」という面白い表現があった。

 ここで、ある実験をしてみたい。二つのコップを用意した。一つには青く着色した水を、もう一方には赤く着色した水が入っている。何人かに、この中に同時に指を入れて、どちらが冷たいか答えて欲しい。…ふむふむ、やはり青い水の方が冷たいと感じた人が多いね。期待通りの反応をどうもありがとう!もうタネが分っている人もいるかもしれないが、実は両方の水は同じ水温に設定してあるんだ。にもかかわらず、青い方が冷たく感じる。こう感じた人がおかしいというのではないよ、むしろ敏感なセンスを持っているといえるだろう。一般的に我々は青に代表される寒色系の色彩には冷たいイメージを抱き、反対に赤のような暖色系には温かいイメージを持つ。今の実験で、我々が化学的な数値以外に想像力によって物事を捉えているということが少しでも感じられたのではないかな。

 そして触覚意外の感覚にも、この想像力というものは関与しているんだ。私は去年の夏、長野の高原のホテルでアルバイトをしていた。そこのレストランのホールも手伝ったのだが、そこで出す水(いわゆるお冷)は、実は水道から出る山水(炭酸を含んでいるのか、はじめは白濁していて気泡を含んでいる)を綺麗な色付きのボトルに入れて少し時間を置いたもの(濁りが消えるまで)を、氷を入れたグラスに注いで出していた。なんてことはない水なのだが、その綺麗なガラスボトルと、高原のホテルという魔法にかけられるのか、お客さんはやけに「美味しい水だ」「どんな水なのですか?」と尋ねてきた。水道水です、とも言えず、当たり障りのないことを言って場を逃れていた。想像して欲しい。同じ水だが、プラスチックの麦茶の容器のようなものから注がれたものと、バカラのピッチャーから注がれたもの、どちらが「美味しい」と感じると予想されるだろうか。やはり、バカラに軍配が上がるのではないか。申し訳ないが、ここでまた少々脱線を許して頂きたい。先ほど、話中に氷水が登場したが、氷は水に浮いていた。当たり前のことのようだが、実は非常に異常な事なのである。普通、物質は固体の方が液体よりも密度が大きい、即ち固体の方が重いので、液体の底に沈むことになる。しかし水はどうだろう。固体の氷は液体の水に浮いているではないか。おかしい。この特徴こそが、水を変わり者たらしめているのであり、また我々の生命が存在していられる根本的な理由でもあるのだ。

 そのまた根本的な原因は、水分子に於ける酸素と水素の結合の仕方(H-O-H間の角度が104.5°、量子力学的な説明はここでは省略)にあるのだが。ジョン・レノンではないが、想像してごらん。もしH2Oが他の物質と同じように、氷の密度が水よりも大きかったら、氷が張るような冬場、池の生き物達は生きていけるだろうか?魚だけではない。人間も、地球上の生命はどれ一つとして生きていくことは出来ないだろうね。地球上の生命は、水の異常性によって生かされている。

 では、そろそろ話を長野のホテルに戻そう。そのホテルでは、コーヒーの注文で何故か、「アメリカンで」とわざわざ付け加える人が多く、少し不思議だった。日本人はアメリカンコーヒーを好む人が多いのだろうか。諸君も、眠気覚ましに効くなどとコーヒーを飲んだりしているだろうけれど、そもそも、アメリカンコーヒーとはどんなものか知っているかな?私も今回調べてみた。コーヒー豆の焙煎度は八段階あり、その二番目に浅いシナモンロースト(因みにエスプレッソは最も深煎の豆使用)という煎り方で、湯を多めに抽出し、たっぷりサイズで飲むスタイルがアメリカ西部で好まれ、これがアメリカンコーヒーとされるという。サラリと軽いアメリカンコーヒーはまた、水の硬度にも関係している。アメリカの水はフランスなどのヨーロッパの水のように硬度が高くないため、コーヒーの苦味で水のイヤミをカバーする必要がない。コーヒーは比較的水が悪くても、苦味で水の悪さを誤魔化せるので、フランス等の硬度の高い水の国で愛飲されるのも頷ける。とすると、アメリカと同様、日本の水は殆ど軟水であるため、アメリカンスタイルのコーヒーを楽しめ、また好まれるのかもしれない。コーヒーついでに、砂糖やミルクがきちんと混ざるという現象も、実は水の、あらゆるものを溶かし込むという性質に拠るのである。

 味覚の最後として話しておきたいことがある。よく我々は水道水はカルキ臭いし、まずくて飲めない、などと平気で言う。それは事実である。しかし、美味しくない水とか危険な水というのは、他でもない我々自身が原因だということを忘れてはならない。我々が汚した水は巡り巡って、我々の体内に戻ってくる。自業自得。きれいな、美味しい水を摂取したければ、我々自身が水をきれいにしていなければならないね。

 

 これまで五感による水の認識をみてきたが、+αの面にも触れてみよう。αを感性、心とすると、それらで感じる水はどんなものだろうか?

 まず、だいいち、我々が最もストレートに感情を表す手段はなんだろう。それは、涙だと私は考える。嬉しい時、悲しい時、感動した時、悔しい時…言葉が途切れたあとに涙が溢れる。涙は言葉よりも多くを語る。うそ泣きが出来る人もいるけれど。そして不思議なことに、この我々の感情が溢れ出した水、つまり涙を流すと、スッキリする。カタルシスという言葉を耳にしたこと、あるのではないかな。そう、一種の浄化作用がある気がする。さきに、水はあらゆるものを溶かす性質を持つと言ったけれど、水は我々のうちにある様々なものまでも溶かしてしまうのかもしれない。悲しみも何もかも全て。

 そういえば、絵などで表される涙や雫の形というのは不思議だよね。何故液体が丸くなるのだろう。今度朝早く起きてごらん、葉の上には本当に驚くほど丸い朝露が置いてあるから。まるであの中に別世界が広がっているような神秘さをたたえているんだ。あの形になるのは、これまた水が、高い分子間力を持つ故に表面張力が高いという性質による。この強さを感じたければ、二枚のガラス板の間に水を広げて、板を重ねて、それらをはがそうとしてごらん。なかなか離れてくれないから。それが分子間力の大きさだ。また、涙を流す時だけではなく、水を見ていてもその効果はあるかもしれない。青春18きっぷの広告や、ドラマ等で思い悩んだり、傷付いた少年少女が川辺や海辺にポツンと佇む光景をよくみるだろう。彼らは何をするでもなくただ水を見、聞き、そうこうしているうちに「人間なんてちっぽけだな〜、俺の悩みなんてちっぽけだな〜」などと、心が晴れてしまう。水は彼らの思いを溶かし、流れてゆく。

 人間にとって生理的にも水が必要不可欠だということは離したとおりだが、人間は水を強く求める存在である。諸君は修学旅行で京都の竜安寺を訪れただろうか。あの石庭の砂利をよく見て欲しい。水を表している。「枯山水」という様式の日本庭園だが、石で水を表わすとは…。確かにそこには静寂を湛えた水を感じることだろう。日本以外でも、特にヨーロッパの町の中心の広場などには大抵、噴水がある。ここに、私の大好きなリルケという詩人が、ローマのボルゲーゼ広場の噴水を詠んだ詩がある。「古い大理石の円形の水盤の中央に重なり合って二層の皿がそびえ、上の皿からたえず沸く水がかすかに、受けて待つ水にしたたり、かすかな音をたてて落ちる雫をひっそりと迎え入れる水は、暗緑の底にきよらかな空をうつす、くぼめた掌にのせられた見知らぬ物のように。静かに美しい皿の中で、水は郷愁もなく、幾重にも幾重にもみずからの輪をひろげ、ただ時々夢のように、青苔をつたう雫となって鏡のような水盤に落ち、反す光がほのかに皿の裏側を明るませる、此岸を越えて行く者の微笑のように。」

 どうだろう。感想は個々人に委ねるが、私はこの流れる水の動きに生命の循環を感じる。繰り返し繰り返し自己に返ってくる運動、内在とでもいうのかな。それにしても何故、街中に人工的な水の空間をつくるのか。血液と海水の成分は非常によく似ているらしい。またまたDr.ヨシノの言葉を借りれば、「海から生まれ、海を内にかかえて生きているのが人間」といえよう。だからこそ人間は絶えず水を感じていようとするのかもしれない。さらに人間は子宮内の羊水で命を育み、生を終える時には死に水をもらい、身を清めてあの世へ旅立つ。水は聖性を持つものでもあり、キリスト教徒の洗礼、ヒンドゥー教徒の沐浴、また禊などに水が用いられる。ちょっと聖書の『創世記』を開いてみると、冒頭はこうです。「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」このときすでに水は存在していた。古代ギリシアのターレスの言葉を引くまでもなく、水は万物の創造の土台として認識されていたことが覗える。

 

 以上、だいぶ長くて、話が飛んだりしたが、少しは水を諸君なりに感じ取ってはくれただろうか。知れば知るほど水は異常で、それ故有難い、何か我々を越えた大きな存在を感じないだろうか。ありふれた世界に驚きと畏怖を感じる。楽しいだろう?今日の私はどれもつまみ食いばかりだ。しかしその中にどれか引っ掛かったものがあれば、今度は自分で調べ、考えて欲しい。最後に、私が感動した、大学のある先輩のレポートにあったサン=テグジュペリの言葉を借りよう(「そなた」とは水を指している)。

 「…そなたは生命に必要なのではない、そなたが生命なのだ。…普通、人は見ずにいる、人間を井戸につなぐ縄、臍の緒のように、人間を大地の腹につなぐその縄を。井戸から一歩遠ざかったら、人間は死んでしまう。」

 我々は知らずして水に支えられている。生かされている。しかし人として、支えられているだけでは半人前だろう?金八先生じゃないけど、人と言う字は両者が支え合っているのだから。我々生物にとっての素晴らしい贈り物である水を、我々もまた支えていかなくてはね。以上。

参考資料

・生野幸吉・檜山哲彦編『ドイツ名詩選』岩波文庫、2002.

・上野英雄『最新 危ない水』現代書館、2003.

・『完訳 グリム童話集1』金田鬼一訳、岩波文庫、2003.

・ 聖書(口語訳)、日本聖書教会、2001.

・『地名の世界地図』21世紀研究会、文春新書、2000.

・ リルケ『新詩集』

 

・ダイドードリンコ株式会社ホームページ

 www.dydo.co.jp/cofee/cofee2001/index10.html

・ 水に感謝!!水周りの万国博覧会

 http://homepage1.nifty.com/shincoo/index.html

・ 吉野先生のホームページとハンドアウト、講義で観たVTR、講義内容

 

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