2003NSIII 「自然の化学的基礎」
堀内佳美
私たち人間は、文明と名のつくものがこの世に現れてから、いや恐らくそれより遥か昔から絶えず争い続けてきた。獲物をめぐるいがみ合いや、土地をめぐる争い、そして地位を求める憎み会い…。形や争われるものは変わることがあっても、戦いは縄文・弥生の時代から繰り返されている。
20世紀は「石油の世紀」と呼ばれた。これも争いに基づいて命名された呼称だ。つまり、中東を始めとする石油産出国をめぐって大国が紛争を繰り返してきたのが原因である。そして今、私たちが生きる21世紀は「水の世紀」になるだろうと言われている。水質汚染や災害、人口の急増によって、資源としての水を求める利権争いが連続して起こるだろうとの予想がされているのだ。今回は「水の世紀」と言われる原因となった二つの理由=水質汚染と水不足について現状を紹介し、それに私なりの提言をしてみたいと思う。
水質汚染と聞いて皆さんはどのような水を想像されるだろうか。ヘドロのように濁って悪臭のする水、生物の住むことができない見るからに死んだ水を思い描く人が多いのではないだろうか。しかし実際は、足尾銅山公害や水俣病の原因となった工場・産業用水の垂れ流しは、規制の引き締めによって近年大幅に削減されており、特にある程度安定した国では、そのようないわゆる汚い川は減少しつつある。代わって、2004年の現在、私たちはもっと深刻な汚染に直面しているのである。現在世界総人口の3分の1にあたる17億人の人々が危険な水を飲料水として生活し、そのため毎日2万5千人もが亡くなっているのである。汚染は時代によってその姿を変えながらも、年々悪化の一途を辿っているようにすら思える。不特定多数の家庭から流れ出す生活廃水や、水道水の消毒のために用いられる化学薬品によって、「目に見えない汚染」が刻一刻と進行しているのだ。つまり、一見綺麗に清んだ水でも、めいっぱい汚染されている可能性があるということだ。これは昔の目に見える汚染より遥かに恐ろしいものではないか。
1974年、米国ミシシッピ川下流のジャズの町 ニュー・オリンズで奇妙な現象が報告された。その町で、泌尿器、消化気系のガンによる死亡率が特に高いというのである。調査の結果、原因は町の水道水に含まれるトリハロメタンにあることが分かった。トリハロメタンとは、世界中で水道水の殺菌のために使われている塩素と水中の有機物が反応して生まれる化学物質で、一定の含有量を超えると発癌物質になりうる危険なものである。日本では水道法で、「年間総トリハロメタン量が0,1ppmを超えないこと(1996年12月)」と定められてはいるが、季節による発生の変動もあり、この有毒物質を完全に除去するのは非常に困難であるのが現状だ。これ以外にも、TOXと総称される勇気塩素化合物は水道水中に多く含まれており、さらにその中には水よりも沸点が高いものが何種類も混在している。つまり、水を沸かして綺麗な飲料水を得ようとして、知らないうちにかえって毒性の濃縮された危険な水を飲んでしまうことになりかねないということだ。
汚染されているのは無論河川だけではない。以前は最も美味しく安全であると言われてきた地下水が、今世界各地で着実にその性質を変えつつある。アメリカ合衆国のハイテク産業の中心地 シリコン・バレーでは、飲料水の2分の1を地下水に依存しているにもかかわらず、地価150メートルにまで汚染が達している。またインドのカルカッタでは、地下水の過剰な汲み上げのため、黄鉄鋼や硫ひ鉄鋼が酸素の層と反応して、砒素が発生し、住民170万人以上を中毒の恐怖に陥れている。もはや世界の何処を探せば100%安全な水が見つかるのか、誰にも分からない時代になってしまった。
次ぎに水不足という問題に目を転じよう。実は、この「水不足」という言葉に対しても、誤った思いこみを抱いている人が多い。水資源に比較的恵まれた日本では、水不足というと旱魃や災害、砂漠化等といった、いわば特殊な自然環境によって引き起こされるという認識が一般的だろう。もちろんそれらの自然災害も水不足の一因ではある。水不足の深刻なアフリカ大陸サヘル地方では、30年にも及ぶ旱魃に見舞われ、最悪のときには年間20万人が餓死している。しかし、今や国境を超えて地球全土を覆い尽くさんとする水不足の大波は、20世紀に起こった爆発的な人口増加に伴う水消費量の急増に起因しているのである。具体的な数字を見てみよう。1950年から約半世紀の間に、一人あたりの水の消費量は3倍に跳ねあがっている。また、1970年からの30年間で人口は17億人増し、それに反比例して一人あたりが使用できる水の量は3割も減少している。これらはシローとが見ても尋常さを逸している。現在中国の一部、インド、メキシコ、タイ、アメリカ合衆国西部などで過剰な地下水の汲み上げがなされており、あるデータによると僅か30年で私たちはこの星の豊かだった地下水を使いきってしまうということである。そうなったときのパニックは、とてもオイル・ショックなどのそれとは比べ物にならないだろう。
さらに、水不足が深刻化を増すにしたがって、被害に苦しむ国とそうでない国のギャップがどんどん広がっている。現在アジア・アフリカを中心として26カ国(2億3200万人)が「水逼迫国」と呼ばれ、国民は非常に悪質な水不足に苦しめられている。さらに、80カ国では水の供給が不充分だといわれ、世界総人口の40%が水確保の困難な生活を強いられている。日本では一人あたりの水消費量が1日3トン、アメリカではなんと6トンであるのに対し、アフリカ諸国の一人あたり平均水消費量は日にたった10−100リットルにしかならない。もし水をめぐる利権争いが現実のものとなり、水を資源として本格的に高値で売買するようになれば、最も手ひどい打撃を蒙るのはこれらの「水逼迫国」を始めとする国であろうことは容易に想像できる。
ではこのような最悪の事態を避けるため、私たちが取るべき対応策とはなんだろうか。まず政府や国際機関が地球的なき簿で取り組むべき課題を挙げよう。一つ目は無計画なダム建設の見なおしである。言うまでもないことだが、ダム建設とは本来必要なときに使えるように水をため、効率良い供給をはかるための貯水池であるはずだ。しかし、実際には政府が民衆の意見を十分に吸い上げることなく着工することに起因する住民の反対運動にあったり、予算が途中で尽きたりして、建設段階になってから工事が中止されるケースも少なくない。また、せっかくダムが完成しても、建設のために行った森林伐採が原因で土砂崩れに見まわれ、完成後数年で泥に埋まってしまうことさえある(中国三門峡等)。貴重な森林を失って、得るものが何もないのでは、ただの無計画では済まされない。日本にある森林は約480億立方トンの水を保持することができる。これは国内最大級の奥只見ダムの貯水量(約6億トン)の80倍にあたる。こんなすばらしい天然のダムを犠牲にし、しかも莫大な費用を投じてまで建設する価値があるのかどうか、政府にはしっかりとそれを見極め、公正な判断と慎重さをもってプロジェクトに携わる責任があるのは当然のことであろう。ダム建設に使うはずだった莫大な予算を他のことに回せば、小規模ではあるがより確実なことがいろいろとできる。例えば、新しく何かを作るのではなく、今までに使っていた水道管の補修工事に当ててはどうだろうか。日本では老朽化した水道管から1割もの水が漏れ出していると言われている。メキシコ・シティやジャカルタでは実に50%もの水が各家庭に辿りつくことができない。これらを修理し、漏水率を何割か下げるだけで、新たに何十万という人々の渇きを潤すことができるのである。もう一つ政府に持続して取り組んでほしい課題は、環境教育や、水の再利用や節水を支援することである。教育に関しては、初等・中等教育のそれはもちろんのこと、水を多く扱う工場や工事現場で働く人に対しても行うべきだと思う。水の地球における状況は刻一刻と変化しており、最も新しく正確な情報を知ることは欠くことのできない重要な打開策であるはずだ。また、効率の良い水の再利用や節水を行っている団体や個人に対して、金銭的・物質的なサポートを提供することも望ましい。やはりこれらを実行に移すには高い技術が必要だし、通常よりもコストが多くかかるのが実情である。それを国や自治体、力のある団体が支えることによって、よりいっそう環境への取り組みが推進されるのではないかと考える。
最後に、私たちが個人レベルで取り組むことのできる対応策をいくつか挙げておこう。まずここで忘れてはならないのが、始めから大きい目標を立てない、という鉄則だ。端から途方もなく高いゴールを設定して途中で挫折するよりも、自分の気力と余裕に応じて小さい目標を設け、達成したらより困難なものにランク・アップしていく方がずっと確実である。まず水質汚染防止だが、これは私たちが毎日排出する生活廃水から始めるのが良いだろう。例えば、洗濯をするときに洗剤を指定量以上に使わないことである。洗剤はやたら多く入れても洗浄力が上がるわけではないし、洗い流すのによりたくさんの水が必要となり、家庭の中の悪循環を引き起こす可能性がある。また、台所排水にも気をつけたい。米のとぎ汁は魚が住める環境にするために600倍の水で薄める必要がある。ガーデニングが世に広まって久しい近年、この栄養たっぷりの水を植物の水遣りに使ってみよう。てんぷら油はちゃんとごみに捨てているだろうか。これに至っては、流しに捨ててしまうと、20万倍の水をもってしないと魚の住環境には適さないのである。では節水はどうだろうか。これも基本の基本だが、「こまめに蛇口を閉める」というのが一番効果的だろう。より少ない水で日常生活を営む心がけは常に忘れたくないものだ。私は実験的に、盥一杯でどれだけのことができるか試してみた。結果は次ぎのとおりである。
1.歯磨き(少量の歯磨き粉)2.洗顔(ぬらしたタオルと石鹸を使用)。
3.足を洗う(2.に同じ)。
なんということはないように見えるが、これらはいつも何十リットルという水を使ってやっていた(る)ことである。昔読んだ青年海外協力隊員の手記には、「バケツ一杯の水で、頭のてっぺんからつま先まで洗うことができた」と書いてあった。どれほど水を大切にするか、意識を少し変えることで、大きな違いを生むことができるのである。私たち一人一人が水に対して高い意識を持ち、自分なりのやり方で行動を起こしていけば、「21世紀、水の世紀」説を良い方向に転じ、あの不思議な力を持つ神秘的な物質を本当の意味で地上に呼び戻すことができるのではないか、と期待している。
References