2003NSIII 「自然の化学的基礎」
「21世紀は水の世紀である」と言われている意味
匿名希望
「21世紀は水の世紀である」と言われている意味が、数々の情報源に当たることにより、ようやく理解できるようになった。正直、私自身、水資源に関して苦しい思いをしてこなかった経験から、世界中で起こっている水問題に関して無関心であった。このことは、日本人が使う水はすべて日本列島に降り注ぐ雨雪によってもたらされる(高橋、p106)という状況からも、日本人の多くが、私と同程度の問題意識のみを持っていると言っても過言ではない。この程度の問題意識、つまり、ほとんど世界の水の状況に関しての知識を持ち合わせていない状態から、参考文献に示してある数々のショッキングな資料を見たときには、背筋が凍るような、地球、世界、人類の将来について大きな不安を感じざるを得なかった。
資料にあたるにつれ、世界の水問題の根本的な原因は、大まかには3つにまとめることができると考えられる。1つ目は、人口爆発による食料増産のための水不足問題、つまり農業の問題である。2つ目は、水そのものの汚染の問題。3つ目は、貧富の差、これには、大きな枠組みでは国家間の貧富の差、つまり南北問題が含まれ、もう少し、小さなスケールで見ると、国家内での貧富の差として挙げられる。言い換えれば、「21世紀は水の世紀である」と言われる所以は、現在、新聞紙上を賑わしている、人口爆発による食料危機、環境汚染問題と、国家間と個人間の貧富の問題といったこれら3つの問題を象徴していると考えられる。こうした問題が複雑に絡み合って、今現在の水問題の解決を複雑にしているようにも見える。
例えば、新聞、雑誌、書籍等でよく取り上げられる中国を取ってみても3つの問題が絡み合っていることがよく理解できる。毎年約10%近くの国内総生産(GDP)成長という明るいニュースと先進国への仲間入りを目指す中国の姿の裏では、中国の一部都市での水不足は深刻化していることがリポートされている(ニューズウィーク日本版 p22)。水不足だけでなく、電力、石炭の不足も深刻化しているとのことである。つまり、産業を振興して国を貧しい状況から脱出させるために、水を大量に消費し、水不足に陥っていのである。また、これに加えて、都市型の生活をするようになる労働者の急増によって、シャワー・水洗トイレといった先進国型の水利用が一般的になり、生活用水の需要が増大したことも水不足に拍車をかけているようである。つまり、貧しさを克服したために、水不足が引き起こされているわけである。同時に、中国は、全世界の人口の4分の1以上を占める。また、中国の主要河川の80%は魚が生息できないほど環境が悪化し、長江(揚子江)には毎日4000万トンの産業廃棄物を生ゴミが捨てられ、黄河は灌漑にも使えぬほど汚染されたとのことである(BarlowとClarke p37-38)。
こうした状況であると、このまま中国が発展を続けることを、日本人も含め、世界中の人々が、傍観することができないかもしれない。鉄鉱石、原油、石化製品といった製品原材料から貴金属、食料まであらゆる国際商品が高騰しているとのことである(東洋経済 p31)。しかしながら、いったい誰が、中国の人々が経済的に豊かになることを止める権利があるのだろうか。
また、先進国であるアメリカ内にも、中国同様に、都市人口の増加による生活用水、農業用水といった水の権利に関わる問題が存在し、住民同士の衝突につながっている(日本経済新聞 2003/11/29 p7)。
水問題のために、グローバルな視点から人間は何をすべきかを論じていることは、大変意義深いことではあるが、こうした問題は、金持ちクラブといわれる先進国(日本を含め)の発展途上国への押し付けとなってはいけない。同時に一国内においても、富める者からそうでないものへの一方的押し付けであってはいけない。こうした視点に基づけば、グローバルな視点から人間が、水問題に対してとるべきアプローチは、一見遠回りに見えるようだが、水の状況を正確に知り、個々の問題に対して徐々に、そして地道に解決をはかるより他はないと考えられる。
BarlowとClarkeの指摘によると、多国籍企業による水資源の乱用はひどいものであり、政府と世界銀行、IMFといった国際機関も同様なものだと非難しており、人のコモンズ(共有財産)である水が侵されている現状にあるとしている。同時に彼らは、これに対抗するための行動指針を提案している。その指針は多岐にわたっているが、もっとシンプルな自分なりの解釈によると、まず、世界の水の現状を理解し、その危機的状況を世界の人々、企業が共通認識すべきだということである。そして、その解決のために具体的行動を起こすべきであるというものだ。グローバルな視点からの具体的な行動としては、やはり、こうした世界の水の危機的状況を知りえる立場にいるものは、その状況を積極的に説明しなければならないであろう。危機になってから、実は知っていましたといっては遅すぎるのである。こうした場として、世界水フォーラムといった会議は、意義のあるものである。しかしながら、このフォーラムの存在自体が、すでに多国籍企業の水資源乱用ビジネスを後押しするもの(浜田 p153)と指摘する者も存在する。いささか逆説的なのであるが、水問題は、地球規模のグローバルな視点が必要であるが、人間が何をすべきかといった具体的な行動となると、ローカルな事案になる。水利用の効率を上げるといった、身近な部分になる。
私自身都市型の生活をしている以上、水利用を節約するため、風呂、シャワー、水洗トイレを明日から使いませんということは困難であり、現実的に何ができるかということになると、水の情報に敏感になり、そして、選挙に行って投票することで、政治にかかわることではないだろうか。有権者が、水問題に大いに関心を持つことによって、水問題が大きくクローズアップされることになり、これによって、水質汚濁、ダム問題、共有財産としての水といったことが重要な政治議題になることが十分に可能になるのである。
地球上における淡水資源の希少性は、講義中に示された資料からも明らかではあるが、危機的状況は、直接目で見えにくいため、地球規模での水不足が発生するほんの直前まで見えにくい。こうしたグローバル規模での危機的状況に対処するのは、温室効果ガスの削減目標を決めた京都議定書に代表されるような国際連合、IMF、世界銀行だといった大きな世界機関だけの取り組みではない。こうした大きな機関であるからと言って、必ずしも正しい事を行うとは限らないのは、先にBarlowとClarkeの指摘にもある。また、組織が巨大になるほど、その存在意義を忘れ、組織の存続のための行動を行うこともあるだろう。あらゆるもののグローバル化が現在話題になっているが、市民運動(市民による積極的な政治への関与)もその恩恵を十分に受けることができる事柄であることはあきらかである。
参考文献