2003NSIII 「自然の化学的基礎」 

 

特異な水、特別な私たち

山本 翔

 

 水に対して特別な印象や感想を持ったり、まして珍しいと思ったりすることは滅多にない。水害や大滝の映像を見たときに脅威と驚異を感じるくらいだ。目の前のコップに注がれた僅かな水に好奇を抱くことは、どのくらい価値のあることなのだろう。

 まず私たちは水そのものにはほとんど味を感じない。水道水でさえちょっとカルキ臭いくらいで遠くからわかるほど匂いがあるわけではない。しかし逆に、水がなければ私たちは味わいや匂いを嗅ぐ楽しみが半減すると言ったらあなたはどう思うだろう。

 今まで理科の授業で見てきた種々の酸や液体を思えば、水は何の面白みもダイナミックさも持ち合わせていないつまらない物質に見える。しかし水という溶媒なしで酸が酸性を持つことはないのだ。また、水に溶けずに液体の姿を取れる物質は私たちの周りには意外に少ない。

 水を手ですくえばすぐにこぼれ出てしまう。水はさらさらと形のないものに思える。だがその水が時に石材を切断するほど強大な力を持つことがある。

 夏になればいつも目にする光景。コップの中の麦茶と氷。氷は水に浮く。今さら何とも思わないこの性質が、実は大きな意味を持っている。

 蛇口をひねれば、水はいくらでも出てくる。地球の表面は、七割が海だ。梅雨には嫌と言うほど雨が降る。私たちは水をありふれた物質だと思っている。思わざるを得ない。しかしいつか地表から海が消えてしまうと聞いたら、あなたは驚いてしまうのではないだろうか。

 私たち生物は水なしでは生きていけないとよく言われるが、なぜ水なのだろう。どうして水が生物にとって大事なものになったのだろうか。

 特徴的でないことこそが、水の最大の特徴だ。なぜ特徴的でないかと言えば、それは私たちが水に慣れているからに過ぎない。私たちは、水に慣れるように進化してきた。だから今更、水を不思議なものとは考えないようだ。

 ほんの少し、視点を変えて水を観てみよう。慣れてしまったものだからこそ、思いもよらない水の本性が見えてくる。

 

 水自体には味はほとんどない。だが私たちがよく飲むペットボトル飲料を思い出して欲しい。その甘さやおいしさの秘訣は水だ。原材料名に書かれることもないが、水が砂糖や二酸化炭素や着色料を溶かしたり、お茶の成分を煮出したりするからこそ私たちはその味を楽しむことができるのだ。さらに言えば、砂糖そのものを舐めたところで、それが唾液という水に溶けなければ舌が味を感じることはないだろう。水に溶ける前の砂糖の粒子が大きすぎるからだ。

 犬は鼻がぬれていないと嗅覚を発揮できない。水が、匂いの媒体になっているのだ。雨上がりの森は普段よりも木の香りを感じる。温かい料理の湯気は、とてもいい匂いがする。普段はそこに水の存在など感じないが、私たちの五感において水が果たす役割は大きい。何かを溶かすことで水は多様な特徴を持つ物質に早変わりするのだ。

 溶かす、と言えばやはり酸・アルカリが頭に浮かぶ。塩酸がアルミや鉄を溶かすのを見たことがあるだろう。アルカリは皮脂の汚れを溶かして落とす。石鹸で手を洗う時のぬるぬるは実は溶かされた皮膚の汚れだ。

 ところが信じがたいことに、水は酸やアルカリを越える能力を持っている。普通の酸では溶かすことのできない金や硝子といった物質でさえ、水は取り込むことができる。海水中に溶けているものは塩だけではないということをご存知だろうか。実際には人工の放射性元素以外の全ての物質が、気体・液体・固体を問わず海水に溶け込んでいる。PHは中性であるにも関わらず、水は私たちが思っている以上に強力な溶剤なのだ。お風呂に入っている時には、私たちの体も水に取り込まれようとしていることを忘れてはならない。

 酸やアルカリ自体、水がなければその性質は発揮できない。塩酸は塩化水素という気体が水に溶けて初めて酸性の物質になる。私たちは水が平凡な物質で、酸をすごい物質と思ってしまうが、実際はその逆だ。気体を溶かすことであらゆる酸を作り出す水の方こそ、特異な物質なのである。

 水はまた、常温で液体の姿を持つ数少ない物質のひとつである。考えてみて欲しい。身の回りに、水以外の液体がどれだけあるだろうか。おそらく水銀や油、アルコールくらいではないだろうか。他の液体はどれもみな水溶液である。牛乳、醤油、絵の具。水に溶けることで初めて液体になるものばかりだ。様々な物質を溶かす水がなければ、世界は固体と目に見えない気体だけの水気のないものになってしまうだろう。

 水は物理学の面からも興味深い性格を持っている。手で水をぱしゃぱしゃと叩いてみよう。ほとんど何の抵抗もなく水は分断され、かき混ぜられるはずだ。そう、一見して水は柔らかい。鉄や鋼に比べれば、剛性のない、弱々しい物質に思える。もちろん液体としては当然の性質だ。

 ただ、水をかきまわせるからと言って、壊すことができるだろうか。小さなレベルで考えれば、水は鋼鉄をはるかに凌ぐ強靭さを持っている。300気圧をかけて水を打ち出せば、石や木を切ることができる。飛ばされる水の分子がそれだけ強靭だからだ。材料を正確に、質を変化させることなく切断できるのは鋼の鋸でも高出力レーザーでもなく高圧の水である。

 また水に圧力をかけることはできても圧縮することはできない。同じ温度を保ち続ければ、100mlのコップの中の水は押しても引いても100mlのままである。水を密閉した容器が凍って水の体積が増えれば、それがスチール缶であっても水道管であっても破裂する。古代エジプトのピラミッド技師は、この原理で石材を加工したという。一方空気や油は圧力を加えると圧縮される。外力に対する水の耐久性は例外的に強い。

 コップの水に氷を入れると、当然ながら浮いてくる。氷(=H2Oの固体は、水(=H2Oの液体)よりも軽いということだ。ところがある物質の液体より固体が軽い、という例は水を除いてほとんどない。アルコールを凍らせて、液体のアルコールに入れると沈んでしまう。ターミネーターでも、固体の鉄・シュワちゃんは液体の鉄・溶鉱炉に沈んでいく。ほとんどの物質は温度が下がれば下がるほど密度が高くなり、重くなる。水だけは4℃の時が一番重く、0℃近くなると少しずつ軽くなる。水は固体−液体の関係において他の物質とは反対の性格を持っているのだ。

 この性質がどんな意味を持っているのだろうか。もし地球の海が水でなくアルコールであったとしよう。すると南極や北極のような寒い地域でできた氷は、海の底へと沈んで行くことになる。深海は日の光が届かないので暖まることのない氷はいつまでも融けず、さらに氷が積もっていく。こうして次第に海の全てが凍りつき、地球は万年氷河期になってしまうことだろう。水でできた海は4℃前後が一番重いから、それより軽い氷が海底に積もることはない。

 また水には温まりにくく冷えにくいという性質もある。鉄のフライパンはすぐに温まるが、やかんの水が沸騰するには相当の時間がかかる。湯たんぽはこの冷めにくい水の性質を上手く利用している。そして海は地球にとっての巨大な湯たんぽである。イギリスは北海道とほぼ同じ緯度にあるがそれほど寒くならない。温かい南からの海流がその暖かさを保ったまま流れているからだ。もし海が鉄のようにすぐ暖まったり冷めたりしていたら、地球はどこも砂漠のように昼が熱く夜は零下の世界になってしまうだろう。氷よりも重く、温度が変わりにくい。水の特殊な性質のおかげで今の私たちがいるのだ。

 

量の面から水を見てみよう。私たちが日常考えるレベルでは水はそれほど稀な存在ではないように思える。地球儀を見てみよう。それを回せば地表のほとんどが海であることを実感できるし、近所の川には汲みだせないほどの水が流れている。

 見えないところにも水は存在している。大気中に水蒸気として。そして意外なほど大量の水が岩石や鉱物にも含まれている。

主に氷としてだが、宇宙にも水はある。彗星や土星などの輪の一部は氷の塊だ。そして太陽の表面にさえ、超高温の水蒸気として水は確かに存在している。

存在範囲を考えれば水はありふれた物質に見える。その量を多いとするか少ないとするかは個人の視点や感性に左右されるところが大きい。だが地球からいつか液体の水が消えると聞いたらどう思うだろう。

あと十億年で水は地表から姿を消す、と言う学説がある。地殻に吸収され尽くしてしまうのだ。既に七億年前から水は減り始めたと言う。もちろん今私たちが心配することではないが、あれだけの水が本当に消えてしまうと思うと十億年はむしろ短いとさえ感じないだろうか。惑星的宇宙的規模で考えると、水は決して豊富な物質とは言えない。

さらに単純に総量ではなく、私たちが利用できる水のことを考えるとその量はかなり少なくなってしまう。まず農業用水や飲料水は淡水でなければいけない。この地球上の水で淡水が占める割合は3%以下だ。それは川や湖、地下水、そして雲という形で分散している。この中でも「安全な水」、つまり病原体や化学物質に汚染されていない水はごくわずかしかない。地図や地球儀をもう一度見てほしい。いかに地球が青い星と言えども、利用できる水はその中のほんの一握りの水なのである。

 

生物の体は、このような水の性質を利用するように進化してきた。血液はそのほとんどが水でできていて、養分、不要物や二酸化炭素を直接溶かし込むことでそれらを運搬している。私たちの体を溶かさないようにしつつ運搬物を運ぶには水以外に適役がない。その他様々なところで、生物は水を媒介として活動を行っている。

 

鉄は非常に強い。硫酸は金属をも溶かす。ウランは放射線を出し、核分裂を起こす。様々な物質が、驚異の性質を持っている。その中で水ほどに不思議な性質を持つ物質を私は知らない。

水は全宇宙の中でも非常に特異な物質だ。そしてその水で生きている私たちもまた、特別な存在なのだということを水は教えてくれる。

 

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