「群馬県高崎市を流れる烏川について」
Q1: 6歳から18歳まで過ごした群馬県高崎市を流れる「烏川」について
Q2: 「烏川」は、利根川水系、幹川流路延長61.8km、流域面積470km2、流域人口約44,2000人の一級河川である。高崎市をほぼ縦断しているため様々な川の顔を見ることができるが、本レポートでは国道17号と併走し、碓氷川と合流する群馬県高崎市高松の地点の烏川について述べる。
現在の高松地点の烏川は、国道17号における和田橋交差点の和田橋との立体交差化工事のために姿を変えられてしまっている。川のすぐ脇を併走する国道を立体交差するために碓氷川との合流経路を変え、川の一部を埋め立てた。その上で必要な重機を川原に搬送そるための場所を作り、烏川を隔てて市街地と片岡方面をつなぐ和田橋の新しい橋脚を作っていた。もちろんその一連の工事で、合流地点にできる砂州の位置は大きく変わり、そこに繁茂していた草などは消えてしまっている。その合流地点の下流側の河川敷は以前からグラウンドがあったが、それは昔と変わらず存在していた。しかし、その立体交差化工事によって、以前とはまったく烏川の風景が変わってしまっている。
Q3: 自分と「烏川」の関わり
それなりに大きい川なので、直接「烏川」を利用して遊んだことはないが、市内のどこに行ってもその川を渡るために目にすることが多かった。
小学生の頃は少年団のサッカークラブに所属していたため、毎週のように練習試合を繰り返していた。その練習試合の場所として毎週のように訪れていたのが、その「烏川」の河川敷であった。河川敷のサッカー場は広く、多くの少年サッカーチームが訪れていた。サッカーの試合に出場しているときも、試合を見学しているときも、つらい練習をしているときも常に背景として目に映っていたのは烏川であった。
高校は「高崎高校」に通った。高崎高校は自宅との位置関係でちょうど烏川を挟んでいため、必然的に烏川を渡らなければならなかった。毎日たとえどんな日であってもその川を渡るために自転車で橋を通っていた。烏川のいろいろな事に気付いたのはそのときであった。まず河川敷を含めた川幅が非常に広いため川風が思った以上に強いことである。特に冬の時期は群馬特有の「からっ風」を市街地や住宅地でうける何倍もの強さで横殴りされる。その「からっ風」は、シベリアからの季節風が越後山脈で大量の雪を降らせたあとに関東平野を加速しながら降りてくる風であるため、非常に乾いて冷たい上に強い風なのである。そしてそのときは川風としての吹いているため、普段受けている風よりも格段に冷たい上に強い。しかし、その冷たい風を受けるたびに自分を鍛えられる手いるような気がし、また冬の時期でもあったことから「ここが鍛錬のしどころだ」と改めて認識させてくれる川風であった。また橋の上から望む山々の風景が非常に綺麗なのである。先ほど述べたとおり、シベリアから南下した季節風は大量の湿気を越後山脈で落としてしまうため、群馬の特に南部で雪が降ることは滅多にない。そのため、烏川にかかる橋の上から眺めた風景は、遠くの白根山系の山には白いコントラストが映えるが、手前に存在する上毛三山の内の二つ、榛名山と赤城山の裾野には全く雪はかかっていない。そしてまたそこから見える高崎市のどこにも雪はない。この風景は空気が冷たくなって透き通っている冬に見られるものとして思い出の深いものとして心に残っている。
Q4: もともと両親は東京で生まれ育ち、自分が生まれてから群馬に引っ越してきたため、20-30年前の烏川について全く詳しくない。そのため近所の方々の話を参照させていただく。
上述した市街地に近い地点の烏川は交通の必要性から昔から色々と開発されていたらしいが、それでも20年、30年前はそれほど大きな橋は架かっておらず、交通の便はあまり良くなかったらしい。それは高崎の地形に由来する。もともと高崎は高崎藩が置かれ、交通の要所として、城下町として栄えていた。そのため城は烏川を背に建造されたため、その場所は、今は国道を通しているもの、ほとんど道路が川と接しているほどに崖のようになっているのである。よって交通技術のいまだ未熟であった頃に交通整備は難しく、ほとんど目立つような建造物(橋)が川付近にはなかったらしい。唯一見えたのは今も昔も変わらず、烏川を挟んで市街地の反対側にある観音山の頂上に存在する白衣観音像だったらしい。
余談になるが、祖父から60年前の高崎の話を聞いた。その話からわかる「烏川」についても言及しておきたい。祖父は兵隊として中国戦線に駆り出され、シベリア抑留後に日本に戻ってきたのだが、戦後の日本において、とりあえず食べていくために俗に言われる「闇米」の販売をしていたらしい。東京を拠点としてその近郊の地方都市手に赴いて米を調達していたのだが、そのうちのひとつとして高崎の話が出ていた。ちょうど市街地から烏川を渡った地域で調達しようと思ったらしく、川を渡ったと話していた。そして縁とは数奇なもので今現在、高崎に越してきて、烏川から眺めて思ったことは、「住宅が増えて、開発が進み、色々なものが変わったけれど、山の稜線、川の流れは変わってないな」と話していた。たとえ人間が自分達の都合で何をしようとも、自然というものは何も変わらないのだと思った。そしてこれを変えたときが、人間が人間でなくなるときなのかとも思った。
Q5: 烏川についてのWeb-Page
国土交通省・高崎河川国道事務所・河川管理課HPより「烏・神流川だより」
http://www.ktr.mlit.go.jp/takasaki/kawa/dayori/index.htm
利根川水系・烏川、神流川についておこなっている公的な行事および事柄を知らせるページ。水質調査の結果や、鮭の稚魚の放流などの記事が掲載されている。
百科事典「日本の川」・関東地方の河川情報・烏川
http://www.mlit.go.jp/river/jiten/nihon_kawa/83028/83028-4.html
烏川の情報が網羅的に載っているHP。河川概要に加え、1.烏川の歴史、2.地域の中の烏川、3.烏川の自然環境、4.烏川の主な災害などの事項が載っている。また烏川の流域図もカラーで載っている。
Q6: 自分の「烏川」という存在に対する思い
自分の母校、「高崎高校」の校歌にこのような文面がある
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セルリアンブルーの川は流るる
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このセルリアンブルーとはまさに「烏川」のことである。これは今年で創立109年を迎える高校が時代を川と共に生きてきたという証ではなかろうか。もちろん学校の体育着、および応援団旗、校章、各部活動の持つ応援旗はすべてセルリアンブルーである。
しかし、今、その「烏川」はセルリアンブルーだといえるだろうか?たしかに高崎という場所自体が東京から長野、上越に抜ける中山道の宿場町であったことから、今もまた交通の要衝としてその交通量は目を見張るものがある。そしてそのせいで渋川・新潟方面へ抜ける国道17号と、もともと中山道としての国道18号の分岐地点はまさに群馬県でワースト1になる渋滞地点であり、交通整備は避けられない急務である。しかし、そのために「烏川」の一部を埋め立て、川を変形させている。原因は何なのかは分からないが、上に挙げたWeb-Pageには烏川の高松地点での水質汚濁はひどくなっていると公表されていた。
これは自分の母校に対する強い愛校心からきているのかもしれないが、自分はそのセルリアンブルーの川を無造作に変えて欲しくないと思っている。なぜならその高校の生徒は大部分の人間が「烏川」を、橋を通って渡る。それは雨の日だろうが、強い風の日だろうが、暑くて死にそうな日だろうが、寒さに凍えそうな日だろうが、そんなことは全く関係なく渡っていく。自分達はそういう三年間を通して鍛え上げられ、成長してきた。その伝統を守る意味でも、橋の上からの美しい景観のためにもそして必要以上の人間の自然への介入への嫌悪という意味でも、「烏川」という川を、原型を残さぬほど変えてほしくないというのが本心である。祖父からの話でも、60年前と今でも川を含めた大きな枠組みでの自然は変わっていないのだから。