見沼サイクリング紀行

                              吉野輝雄

                                     1997年3月20日

 

午前10時、まき子と武蔵浦和へ。智和くんがまだ届いたばかりの黄色の新車(FIAT)で迎えにきて来てくれていた。

今日は、楽しみにしていた浦和の見沼のサイクリング。心配されていた天気もまずまず。花輪さん夫婦が自転車、おやつ、コースの下見と準備万端ととのえてくれていた。10時半に出発。

コース:22km, 5.5時間

花輪家→文殊寺→父の墓参り(東漸寺)→郷土博物館→見沼用水西縁→氷川神社→案山子公園(昼食)→芝川→通船堀→民家博物館→見沼用水東縁→国相寺→鷺山公園→帰宅

文殊寺:

 受験の神さまのせいか大分繁盛している様子だ。立派な構えに改装されていて昔の面影が全くない。2月と8月の25日の縁日で来るのが楽しみだった境内を目を閉じて思い浮かべた。父が「学業精進」「学業成就」のお札を買って家の鴨居に立ててくれたのを思い出す。親の心子知らずであったが。

父の墓参り(東漸寺):

 彼岸の中日なので何組かお墓参りにきていた。東漸寺の「鰐口」の文化財が寂しげに掛かっていた。まき子が縁の下をのぞき、蟻地獄がないと言う(以前、私が子供の頃そんな遊びをした事を話したからだろうか)。

 

郷土博物館:

 市立病院前に建つ白亜の郷土博物館に初めて入る。見沼の昔と今、農機具、氷川神社の宝物、不動明の像、昔の浦和の様子などなどが展示されていた。なつかしい埼玉會舘と県立図書館の写真に目がくぎ付けされた。特に、かつて県立図書館であった建物が、この郷土博物館として再現されたことを初めて知った。中学1年生の頃くぐった県立図書館の玄関と薄暗く油臭かった廊下、重々しい木の机が目の前に浮かんで来てなつかしかった。

 

病院横の坂道を下って見沼用水へ:

 子供のころ息を切らせながら登り降りした坂道もあっと言う間。川にはほとんど水がなく、両側はコンクリートで固められ、金網のフェンスまで付けられていた。あのどうどうと渦を巻いて流れていた見沼用水はどこにいってしまったのか。働きざかりの頼もしかった30代の壮年がすっかり年をとって皺だらけの老人になってしまったような感じだ。当時、橋の上から流れを見ていると足がすくみ恐かった程だった。その橋の上に立つのも好きだった。また、橋から川に飛び込んで泳いだ中学の兄貴達を見て尊敬の思いを抱いたりした。今思うと、子供の心を育んでくれていた所であったのだ。残念ながら、今、その野生は一かけらもない。

 川沿いの道を自転車で走る。川岸の道は、桜の木が10mおきに植えられていて、それはそれで散歩道として整備されているのだが、自然はずいぶん遠く退いているなと思った。対岸の岸から川面に垂れ下がっていた樫や水木の枝は今は全く無くなっていたし、何よりも田圃がすっかりなくなっているのだから見沼用水の役割はもう終えたのだ。田圃は植樹用の畑になり、ビニール温室になっていて、今は米は一粒も生産されていない。この現実を見ないで感傷にふけっている自分は何者か?都会人の身勝手さと言われてもが仕方ない。  昔は川が曲がりくねり、その角々が自己主張をしていたのに、今はすっかり角がとれ、川沿いの道もやさしい道になっていた。橋に通じる道がほとんどコンクリートで整備されている中で一個所だけ昔ながらに竹で垣根を作っている所があった。なぜかほっとした。

氷川神社→案山子公園(昼食):

 子供時代友だちと遊んだ神社の境内に立った。子供のころ神社そのものにはほとんど近づかなかったのは今思うと不思議だ。境内の中央に立っている肉桂の大木を見て、皮を剥いだり、根を掘ったりした事を思い出した。見沼用水から境内にあがる石段が、子供の足では随分急で長いと思っていたのに、今はいとも簡単に登れてしまうのがおかしい。橋向こうの川  沿いに初めてその名を知った花梨(かりん)の木が今も残っていた。  しかし、昔と大きく違ったところは、案山子公園が出来ていることだ。「山田の中の一本足の案山子---」という童謡の作者が三室出身の人であったとは!稲穂が揺れる見沼田圃に立っていた案山子を想像すると楽しくなる。  

この公園にビニールを敷いて昼食。おにぎり、煮物、キュウリの塩漬け、梅干し、苺とどれも恵子の心尽くしでありがたい。花輪さんが買ってきてくれたビールも喉に快い。青空の下の食事はおいしいものだ。近くで氷川神社の池と石橋を写生している人がいた。もしかしたら「見沼のスケッチ散歩」を描かれた高橋さんだったのかな?

芝川→通船堀: 復元された通船堀

 田圃道を南に下り念仏橋へ。道沿いに咲くこぶしの花がきれいだ。芝川沿いにさらに南下していくと、川の縁に一羽の白鷺が一本足で立っていた。頭のてっぺんから垂れ下がっていた白い羽根が美しい。しかし、川の水が汚れているのが何とも哀れ。武蔵野線のガード下ではたくさんの釣り人が竿を下ろしてした。どんなに汚れていても魚が棲み、釣り人が来る。まだ死んだ川ではないという事であればよいが---。  通船堀の西縁は目下工事中であった。そこで、反対側に向かう。橋のそばに水神社という小さな社があり名前に注目させられる。東縁の通船堀は、最近復元されたもので当時の通船様式が一目でわかる。今は水が少なくさびしいが、水を流してパナマ運河と同じ開門方式で通船する様子を再現したところも見たいものだ。

民家博物館:        

 昔(と言っても50年近く前のこと)の農家の家屋と三室農協の倉庫が復元され民家博物館となっていた。農家は、三室の母の実家とほとんど同じ作りで違和感がない。土間と板の間作りの中と重そうな板の引き戸がなつかしい。そんな事を話していると、まき子は、「おとうさんてそんな昔の人だったんだ」と言う。縁側に竹製のけん玉とぶんぶんコマが置いてあったので、昔慣らした技を試すつもりでやってみる。ぶんぶんコマはあまり勢い良く回したせいか自己分解してしまった。やはり子供が遊ぶものなのか?  

     

三室農協倉庫は、私が生まれた三室の家の庭にあった建物なのでなつかしさも格別だ。大谷石で造られた壁と白壁が端正な均衡をなして立っている。母が言うには、昔私がお仕置きとして倉庫に入れられたことがあったそうだが、どうしても思い出せない。むしろ自分から倉庫に入って遊んで楽しかったことが思い出される。そして、米俵の上を青大将が這って行ったのを見てふるえたことが忘れられない。何と、今この倉庫の中は民芸博物館になっていた。御輿、農機具、建て前の時に屋根に立てられる飾り柱、とうみや鍬などの農機具が置いてあった。確かに昔は身近にあった物ばかりだ。

見沼用水東縁→国相寺:

 時計は3時をまわり、やや肌寒さが感じられるようになって来た。見沼用水東縁沿いに北に向かって走る。西縁ほどではないが、水田農業の役目を終えた見沼用水は東縁も水量が少なくさびしい。  川沿いに国相寺がある。菊の紋章付の門がどこか不釣り合いだ。ちょうど彼岸なので墓参りの人々がおおぜい境内にいた。たくさんの白い花を咲かせた大きなこぶしの樹がきれいだ。境内で店を開いていた花屋の出店でイースターカクタスの鉢を母へのみやげとして買う。

鷺山公園:    昔の鷺山

 今日最後の目的地は鷺山公園。昔、樹木の枝を埋め尽くして止まっていた鷺が今は一羽もいない鷺山。これでは詐欺山ではないか(すでに言い古されたダジャレ?)。 タイル張りのきれいな建物が鷺博物館。中には鷺の剥製、美しい羽根を広げた鷺の写真が展示されていた。しかし、鷺のいない鷺博物館はむなしい。鷺山に来る道で見た数羽のこさぎが餌場を見つけて生き延びてほしいものだ。

 こうして見沼周辺一日サイクリングが終えた。走行距離、22km。帰宅したのは4時半を回っていたので出発から約6時間。楽しく懐かしいサイクリングであった。私には、目の前に見える景色と目をつぶった時に見える景色とが二重写しに見えた不思議な旅でもあった。元々は、まき子が「見沼のスケッチ」を見て言い出した計画であった。しかし、卒業式直前に生まれ故郷の土地をもう一度見ておく機会として、何よりも父親が子供時代を過ごした所を知る機会として貴重な一日であったと思う。事前の下調べ、いろいろ準備をしてくれた花輪さん夫婦に感謝したい。

 

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