2003NSIII 「自然の化学的基礎」 課題 I
「川と人間生活」 荒川(埼玉県)
山本 翔
荒川、人が自然に距離を置くところ
今流行のウォーターフロントと言う言葉には少し抵抗がある。
私が「川」と聞いてイメージするのは山奥の細い清流でも河口近くの大きな三角州でもなく、そのちょうど中間にある中途半端な川、荒川だ。荒川と言っても私の住む荒川区からは隅田川と足立区を挟んで数百メートル離れている。
荒川に関するウェブサイトは中々数が多い。荒川の歴史を紹介したり、現在の水位情報を教えてくれたり、Real Playerを通して川の景色をリアルタイムで見ることも出来る。M.Koizumiという人物の管理するサイトでは、荒川にかかる橋を中心とした話が掲載されている。荒川がかつては隅田川の流れであったこと、現在の荒川は放水路として作られた経緯が書いてあるのもこのページである。
そう、荒川と聞けば、多くの人が多摩を流れる雄大な一級河川、荒川を思い浮かべることだろう。利根川から分流し、その水質は関東三位。レジャーにキャンプにフィッシングにと気軽に自然と触れ合える人気のある川である。しかし私がここで取り上げる荒川は元の名を荒川放水路と言って本来の荒川の氾濫を防ぐために作られた運河なのである。今でも梅田−浅草寿町間のバス停には「放水路土手下」という名前が残っている。かつての荒川はと言うと何故か隅田川に名を変えて下町荒川・浅草地域を蛇行している。荒川区と言う名称は恐らくこうした複雑な治水事情によって荒川本体から引き離されることになってしまったのだろう。
私が普段通行したり遊んだりする荒川は、隅田川と別れた後の扇大橋から河口よりの堀切橋のあたりまで。控えめな護岸となだらかな芝生の横は高速道路だらけであり、無数のビルや工場の煙突に囲まれていて決してよい景観とは言えない。芦や雑草が生い茂り、夏にはちょっと嫌なにおいもする。透明度もなく有色不透明、果たして水質が関東三位なのかどうか怪しいものである。水質三位に輝いたのはきっと上流の方だろう。鮭が上るとも聞くが、上流では本当にこんな川を通ってきた魚を釣って食べるのだろうか。とにかく川そのものと触れ合いたくなるような見た目ではなく、いわゆる「荒川」とは別のものとして扱う必要がある。
とは言えこの荒川は私にとって最初に思い浮かべる川であり、何らかの文脈で「川」という単語が出てきた瞬間心象に写るのは近所の隅田川でも遠く多摩の荒川本流でもない。特に隅田川は荒川のライヴァルで、身近さという視点から言えば近所であるため荒川よりも目にしている。下町のシンボルであり、中学校では「隅田川今昔」という歌も歌った。花火大会も荒川より盛大に開かれる。何より河口が臨海副都心という一等地をしっかり押さえているため人気も知名度も高い。隅田川と荒川はそれぞれスターと落ちこぼれになった双子のようである。それでも私は、隅田川でなく荒川が好きだ。荒川はそれだけ私の半生と関わってきたし、これからもそうなるとよいと思っている。
前述のように荒川は芦や雑草が生い茂り、水もあまりきれいとは言えない。泳ぐ人はまさかいないだろう。川幅は狭いとも広いとも言い難く、要するに中途半端だ。キャンピングカーを停めてのバーベキューなど間違いなく場違いである。交通量も多いので朝昼関係なく車の騒音が絶えない。潮の嫌なにおいもあり川風で夕涼み、という雰囲気でもない。
しかし隅田川もどうだろう、もとは同じ川、水質は同じようなものだ。しかもこちらは完全に護岸で固められ、見た目はただ幅が広いだけの用水路に成り下がっている。もともと氾濫を起こす問題児であったからこのように過剰なまでの治水が求められたのであろうが、もはや川として残しておく価値があるのか疑わしいところだ。
もともとは自然の川でないにしろ、荒川には人が接する機会が多い。荒川と言うよりも荒川周辺と言ったほうが適切だろうか。川沿いのジョギングコースを走ることもあったし友達と集まって花火も出来る。獅子座流星群を見るために深夜毛布を持って出掛けたのもこの河川敷だ。利用したことはないがゴルフ場や野球場があり、ごくまれに釣りをしている人も見かける。せいぜい小さな公園があるだけで広い岸のない隅田川にこれだけの機能を求めることはできない。
恐らく隅田川沿いにあるマンションなどを人は望ましいウォーターフロント開発と呼ぶのだろう。素晴らしき水辺での生活。だがそれほどきれいでもない人工河川の情景を前に何を楽しむのだろうか。
本来あるべきウォーターフロントとは、何も生活と自然との物理的距離を縮めることではないのはないか。逆に多少の距離があってこそ荒川の存在意義はある。排気ガスを直接浴びることなく何キロも走ることの出来るジョギングコースはどこにあるか。花火で遠慮なく遊べる広場は?星を眺めることの出来る広い空は?ここ東京の下町では荒川の河川敷にしかない。自然と言うには人工過ぎる、人工の割には野放しになっている。そんな中途半端さが、この都会ではむしろ貴重なのだ。公園として整備されれば電灯だらけになって星など見えないだろうし、住宅が進出すればまたしかり。
そして川というものがあるおかげで、荒川とその淵の数十メートルは未だ開発を免れている。
何度も言うが荒川は本来、自然の川ではない。治水のために流れを変えられた人工の川だ。だが逆に考えてみれば、人は荒川の流れを変えることは出来ても完全になくすことは出来なかったわけだ。そこに荒川の中の「自然」が見出せる。都会に征服されたかに見える自然界の最後の抵抗、それが荒川だ。周辺の開発が進もうと、未だ荒川は手付かずになっている。荒川区に生まれた父の話を聞いたが、荒川は昔から今と同じ外見をしていると言う。さほどきれいでもなく、芦が生い茂り、土手では少年野球が行われる。数十年の間、開発されるでもなく、かつての自然に近づくわけでもなく荒川はその姿を保っている。
嬉しいことに荒川がウォーターフロント開発に屈する気配はなく、これからも今の中途半端な状態を維持していくだろう。人が接する機会が多いとは書いたが、それ以上の関係にもならない。開発に下手に手を出せばお金がかかるだけ。人間には手出しが出来ない。例えこの下町が高層ビルに埋もれてしまっても、荒川とその河川敷だけは陽の当たる空き地として残っているのではないか。自然とはなんだろう、そう思ったときに目の前を悠々と流れ続けているかつての氾濫の象徴、消したくても消せない荒川を見ることで人は少し自然に敬意を払うことができると思う。だから荒川は私の大好きな川なのだ。