2003NSIII 「自然の化学的基礎」 課題 I

「川と人間生活」 天野川大阪府                       

 

 今度の年越しは実家の大阪でだった。半年振りに帰った実家とその近辺は大きく変わっているように見えた。だがおそらくは自分自身が大きく変わったからだろう。ただ唯一本当に変わってしまったものがある。それが近所を流れる天野川だ。私の実家は大阪府の北河内にある交野市である。田園風景が未だ残る自然多き町だ。そこを流れる天野川は生駒山を源流とし最後に淀川に合流する。年も明けた某日、私はやることもなく何も持たず、家を出てみた。東京ではそんな気も湧かないが、空気がきれいだとふと外に歩き出てみたくなる。天野川は家から歩いて5分もかからないところを流れている。何とはなしに橋を渡る。昔はいた川辺で遊ぶ子供ももういない。そこには堤防という人工物と、それによって人間が川辺に降りられず放っておかれた生い茂る草とが並存していた。別に水が汚れているわけではない。川底も高い橋の上から十分見える。東京の川ではこれだけのこともできない川が多い。ただ川底は見えるが生物は見えない。特に魚が見えない。少し寂しさを感じる。名前も知らない小さな魚たちだったが見るたびに気持ちが高揚したのも昔のことだ。さらに上流を眺めるとそこは森となって川が見えない。ただ、さらさらという流れだけが聞こえる。おそらくこの荘厳な森林が人間の侵入を今まで防いできたのだろう。いつ見てもこの景色に人工物は紛れていない。下流を振り返るとそこは別世界。上流に踏み込めなかった人間の腹いせのように草がきれいに刈られて整理された人工的な川がある。そこだけを写真で見せられれば人々は皆きれいな川ですねと言うだろう。だがきれい過ぎるのだ。なぜ子供が川辺で遊べるように砂が平らにされて、体が隠れるほどの草が一つもないのか。そのような「緩やかな」流れが遥か彼方まで流れている。

 数え切れないほどその川には行った。大きくなるにつれて親離れならぬ川離れをしていった私だが、昔はよく天野川で遊んだ。目的はなかった。行けば何かがあった。川辺の虫を友達と取りあった。生い茂る草の中をもぐって他の子供がいけないような所まで進んだ。急な流れにサンダルを流された。全部で何足流されたかは覚えていない。ありきたりだが、天野川は私の暮らしの一部だった。日課という意味ではなく、川に行くことに特別な緊張や冒険心も抱くことなく、その辺の公園の延長のように感じていたということだ。いわば私のテリトリーだった。しかし川自体を支配することはもちろんできなかった。いつも支配されていた。家に帰れば体はぐったりと疲れていた。あのような心地よい疲れを最近は感じているだろうか。感じられるのだろうか。私が自然に触れないのが原因なだけなのか。それとも感覚自体が鈍って、もう自然に触れても、あの川に行っても何も感じないのだろうか。また少し寂しさを感じる。長年、天野川を見てきた年寄りの人たちはもっと寂しさを感じているのだろうか。私の親もやはり寂しさを感じていた。だがそれほど大きな寂しさではなかった。昔の天野川は確かにきれいだったらしい。魚ももっとたくさんいたし、草木は手入れをされず自然の力を存分にして茂っていた。さすがに親の時代でも堤防はあったらしく自然の原形をそのままとどめているということは既になかった。つまりそこには既に人間の手が加えられていたのだ。だから今の天野川が人工的だといっても、それは程度の問題なのだ。そして業者などの度が過ぎないように市民の人が協力し合って川の人工化、破壊を食い止めているのだ。だから今の天の川を見ても昔と同じ自然を感じることができるらしい。確かに天野川にはどんどん人の手が加えられている。だが自然を守ろうという人々の働きがあって天野川はまだ自然としての輝きを失っていない。私は数年間の川の人工化に過敏に反応しすぎたのだ。親から見れば自然のままの天野川などというものは元からなかったのだ。そこにはいつも川との共存があり、自然の威厳があった。

天野川は昔から人間と交流してきた。古くは9世紀に惟喬親王が現・御殿山近くの領地「交野の渚の家」で遊び、狩りにかこつけて交野桜を愛でたあと天野川原に立ち寄る情景が「伊勢物語」に描かれている。酒宴の際、在原業平が「狩り暮らしたなばたつめに宿借らむ 天の河原に我は来にけり」と詠んでいる。また西行の「山家集」にも「あくがれし天の河原と聞くからにむかしの波の袖にかかれる」という歌が載っている。どうしてこのように天皇や歌人が天野川に立ち寄ったかは定かではない。ただ現在にまで姿を残す天野川の七夕伝説がある。それは交野市の倉治にある機物神社の織女が枚方市の茄子作にある中山観音寺の牽牛と会うのが天野川にかかっている逢合橋だった、という伝説である。昔の人は何とか天野川を天の「天の川」と関係付けて、神聖視したかったのかもしれない。ただ天野川は古くから人々に愛されていたのは事実のようだ。私にもその人々の気持ちがわかるような気がする。

私は小さいころから雄大な天野川に包まれて生きてきた。無意識のことだった。それが自然破壊だ、自然のままが一番だ、などと世間の潮流に呑まれて大人のふりをして、自然を素直に感じることを忘れてしまった。私の感覚が最も人工的になってしまった。その一方で天野川は悠然とまさに時代を流れていたのだ。一千年前から人間との関係を築いてきた天野川は私が気づいた変化などには動じない。そしてこれからも自然の輝きを放ち続けるのだ。多くの人が守り続けるだろう。これまで守ってきた故人達の遺志を受け継いで。私は今回天野川を見て昔の感動を少し思い出せた気がする。天野川は私が思う以上に大きかった。川自体の歴史の流れ。そこに関わってきた人々の思い。自然の雄大さ。幾重にも重なったそれらは簡単には変わらないし、まして消えはしない。楽観的に聞こえるかもしれない。現に都会ではどんどん川は消えているし、地方でも埋め立てられたりしている。それでも自然は偉大だ。と述べるのは簡単だ。軽薄でさえある。だから蚊帳の外でそれらを眺めてればいいなどとはいわない。実際に川を消そうとする政府、団体には運動を起こさなければならない。だがそのような時、川はきっと空から見て笑っているだろう。川はその辺にできた会社などとは違うのだ。遥か昔からそこを流れていたのだ。生物の故郷、水が流れてきたのだ。数え切れない年月をかけて土を削り形を形成してきた。私たちはもっと謙虚にならなければいけないのではないか。人間の歴史など川の流れに比べればちっぽけだ。まして私一人の歴史など比べるのも恥ずかしい。その姿勢からしか自然に感動することはできない。なんと抽象的な言葉か。だが謙虚になればわかる、思い出せるはずだ。そのような私だから川にどうあってほしいなどとは思わない。そのままで十分なのだ。変わらなければいけないのは私たちだ。なぜ人間が中心なのか。驕り高ぶるのはなぜか。自然に支配されたっていいではないか。私たちは川からどれだけの恩恵を受けてきたのか。

 

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