2004 冬学期 NSIII 「自然の化学的基礎」 課題 I 「川と人間生活」

〜昨日・今日・明日、そして善福寺川〜(東京都)

                           須永 浩子

 

善福寺川

 フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によると、善福寺川は「東京都杉並区の善福寺公園内善福寺池を源とし、同都中野区の地下鉄丸の内線中野検車区(最寄り駅は中の富士見駅)付近で神田川に注ぐ全長10.5kmの一級河川である。杉並区を北西から南東に貫くように流れており、中野区に入ると間もなく神田川と合流する」川である。

 杉並区は現在、地域振興のための地場産業としてアニメーションに力を入れている。なので、杉並区にはアニメーション製作会社が多数、点在している。アニメ番組制作に20年携わっている関係で、杉並区は仕事の拠点のひとつである。つまり、善福寺川とともに20年過ごしたことになる。そこで、今回は善福寺川をとりあげてみたい。

 

善福寺川の現在

 まず最初に現在の善福寺川を見てみよう。2004年の秋休み、丁度タイミングよく仕事が入り、荻窪のスタジオに通うことになった。荻窪駅南口から環八通り沿いに歩くと、細い用水のような川がある。これが善福寺川である。何故か、川や海を見ていると、勉強や仕事の疲れが自然と癒されるようで、疲れると川を見に行くことは多い。川や海をボーっと眺めているのが好きなのである。善福寺川を見に行った時期は冬に近い秋だったため、川の色も暗く、いつも初夏になるとみかけるカルガモの親子も見当たらず、少々寂しい風情であったが、穏やかな小春日和の陽射しに川面がキラキラと揺らめいて、川幅は狭いながらも悠々とした時間を感じさせる川である。水質が以前に比べると良くなったような気がする。

西荻窪を終の棲家とした水原秋桜子という俳人の句に、いくつか善福寺川を詠んだものがある。

 

「辛夷咲き 善福寺川 縷(る)の如し」

 

 辛夷(コブシ)は春に咲くもくれん科の落葉木である。広辞苑によると「早春、葉に先立って芳香のある白色六弁の大花を開く。果実は秋に熟し開烈、白糸で赤い種子を釣り下げる。材は緻密で機具・建築に、蕾は鎮静・鎮痛剤に、花は香水の原料に、樹皮・枝葉からはコブシ油をとる。ヤマアララギ。コブシハジカミ。」とも呼ばれている。「縷(る)のごとし」とは、糸のように細く引くさまをいう。善福寺川は決して大きく綺麗な川ではないが、狭い川幅でゆるゆると、そして10キロのわたる長さで神田川まで流れていく風情が正鵠に表現されている。この秋桜子の善福寺川を詠んだこの俳句(昭和31年作)について「水原秋桜子」(藤田湘子、桜楓社・昭和55年)には次のようにある。「辛夷が咲くと本当に春が来たように思う。白い花が葉の萌えるより早く枝にびっしり群がって咲くと空もようやくかすんだように鈍い白銀色になってくる。いつの間にか咲いたといった感じの花である。そういうある日作者は句材を求めて善福寺川のほとりを歩いた。町並みに挟まれてどこまでいっても川幅はひろくならず窮屈そうに流れていく。善福寺川の特徴を的確に捉えている。綺麗でもない川の表現にこうした美しい表現を用いた点も彼らしい。」他にも、善福寺川を読んだ俳句としては、

「額(がく)萌えぬ 善福寺川を 隠さむと」 

「蜻蛉うまれ 善福寺川 池をいづ」

 

という句もある。昭和30年代の風景であると思われるが、その佇まいは現在も変わらないようである。

 

善福寺川の過去

 20年前。1980年代である。ほとんどの現役ICU生がまだ生まれていない頃。私は駆け出しのアニメーターとして杉並区、および中央線沿線で仕事を始めた。最初に一人暮らしをしたのも杉並区阿佐ヶ谷であり、そこには善福寺川沿いに善福寺川公園という緑地地帯がある。スタジオが西荻窪であったため、個人的には善福寺公園に行くことの方が多かったが、善福寺川沿いの阿佐ヶ谷から高円寺にかけて、善福寺川緑地公園、和田堀公園や済美公園があり、市民の憩いの場所となっているということである。20年前当時の川は、今ほどには水がきれいではなかった記憶がある。現在に較べると、当時は環境に対して、社会や市民の関心が薄かった時代なのかも知れない。消費すること、使い捨てにすることがカッコいいこと、のように思われていた時代である。魚やカルガモを見かけるようになったのは、ここ最近10年くらいではないかと思われる。もっとも、20年前は仕事を始めたばかりで休みもなく、川の様子まで見ている余裕がなかったので、もしかしたらその当時も、善福寺川に小動物や魚は住んでいた可能性はある。

 春になると、花見に善福寺公園に行くことがある。善福寺公園は練馬区との境の近く、ここが善福寺川の水源である。杉並情報web siteによると、「武蔵野の湧水池の一つ。江戸時代には水量豊富で神田上水の補助水源でもあった善福寺池も、今は地下水をくみ上げて池の姿を維持している。800年あまり昔、源頼朝が奥州征伐の途上この地で飲み水に困り、傍らの弁財天に祈って弓の矢筈で地面を突いたところ水が出たと伝えられている。水の出が遅かったので、湧き水に『遅野井』の名がつけられ、井草村の別名が遅野井村になった。池の名前は、池のほとりに昔あったと伝えられる古い廃寺『善福寺』に由来しており、その弁才天が池の中の小島にある市杵島神社に祀られている。」とのことである。今まで特に善福寺公園について調べたことはなかったので、今回初めて知ったことが多い。湧き水の名の由来などは、地元の人には馴染みのあることなのかも知れないが、20年も住んでいながら知らないことはまだまだ多い、と思った。義理の父母も40〜50年前に栃木から西東京に移り住んだそうで、大昔のことはよく分からないようだが、30年くらい前の善福寺公園や井の頭公園の話などをしてくださることもある。善福寺公園には、元力士の若ノ花、貴ノ花兄弟がよく自転車で遊びに来ていたらしい。池では釣りも出来るし、子どもにとっては、善福寺公園というのは格好の遊び場所であったに違いない。

 水源の水量は、現在はあまり豊かとはいえないようではあるが、昔の町営水道施設、現在の東京都水道局杉並浄水所が池の西側にある。昭和48年11月、今から30年ほど前までには高架水槽の高い塔が立っていて遠くから見えたそうだ。現在、浄水所からは日量15000トン、杉並区に送水されている。都全体の0.2%を占めるそうだ。規模は最小ながら東京都で唯一の地下水源でろ過不要の最高の水質を誇っているということである。ちなみにこの水は池には使っていないとのこと。

 

善福寺川の未来

 これから将来も善福寺川はこのままでいてほしい。これは住民の誰でも願っていることであろう。特に、子どもたちには、都内にあって自然の残る公園は貴重な存在である。水が人間にとって大切であるということ、水は様々に姿を変え、私たちのくらしに生きていること、なによりも飲み水として800年も前から沸き続けているということ、そのことが身体を通して体験できる場所としての善福寺川。是非、将来もこのままの姿で残していきたいものである。

 善福寺川は神田川や荒川などと比較すると、小さな川なので、自然の脅威や大規模な生態系は学べないかも知れない。が、しかし、その小さい川が何百年にも渡って杉並区という広い地域の土壌を潤してきたということ、そしてこれからもそうであろうということに思いを馳せると、この小さく狭い川の持つ潜在的な力に気付かされる。昭和30年代の杉並にはまだ田圃も残っていたようで、当時は8600アールの水田があったそうである。最後に水原秋桜子の句で締めくくりたい。

 

「杉並区 水田のこりて おぼろなり」

 

引用・参考文献

ウィキぺディア 日本語版 2001. 2004 <ja.wikipedia.org/wik/善福寺川>

広辞苑 第5版 1998,2003  岩波書店

杉並情報. 2001.10 Dec. 2004

<http://home.att.ne.jp/air/jobcci/info-suginami/right.html>

藤田湘子 1980 水原秋桜子 桜楓社

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