A2:清流と呼ばれるほど、きれいな水が流れているわけではないが、化学物質などで汚染されている様子や、目立ったごみは捨てられていない。周りの人々が、自然環境への意識をもち、適切に管理されているように思う。
そして、今も変わらず、犀川は、その周辺に住む人々の当たり前の生活風景の一部として溶け込んでいる。犀川の河川敷を、多くの人がジョギングしたり、犬の散歩をしたりという日常の光景は、私が幼い頃から変わっていない。私が、ずっと目にしてきたのは中流域の犀川大橋付近が主で、犀川という川の一部にすぎないが、犀川は市民の生活空間の一部としてしっかりと根付いて、この川がない金沢の街は想像できない。当たり前のように存在し続けられるのは、この川が、周りの人々に愛され続けている証拠のように思われる。
A3: ・夏の日には、友達と犀川に入って水遊びをしたり、大きな石の上を飛んで反対側の岸辺に渡ったりと、よく川で遊んだ。
・春は、犀川の河川敷沿いに、多くの桜が咲き誇るので、川の岸辺で花見や、散歩をした。
・ 大雨の日の後、増水して、普段は考えられないほどの勢いで流れている川を見て、水への恐怖や自然の偉大さを感じた。
・ 犀川にたくさんのカモが来ているのを観察した。
A4:20〜30年前と比べて、犀川の周りの街はビルや家が多く建ち変化しても、犀川の姿自体は、ほとんど変わっていないそうだ。今も、昔も、変わらない姿で、人々の日常風景の一部を担っていたのだろう。
金沢の三文豪の一人として知られる、室生犀星(1889〜1962)が『犀川』という詩を詠んでいる。
美しき川は流れたり そのほとりに我はすみぬ春は春、なつはなつの 花つける堤に坐りて
こまやけき本の情けと愛とを知りぬ いまもその川のながれ
美しき微風ととも 蒼き波たたへたり
何十年も昔の人の詩にもかかわらず、現在の犀川の姿にも通じる様子が見受けられている。
A5:犀川とは、石川県金沢市の中央部を流れる二級河川である。全長34.25キロメートル。流域面積約256平方キロメートル。金沢の三文豪の一人である泉鏡花が、大正8年発表の小説『由縁の女』の作中で、同じく金沢市を流れる浅野川を女川と表現したことの対比として、男川と通称されて、親しまれている。江戸時代初期に建設され、犀川上流の水を金沢城に引いた辰巳用水が現在も流れているほか、数々の市内を流れる用水の取水源となっており、金沢市民の水資源として重要な役割を果たしている。上流には、犀川ダム・内川ダムがある。古くは、中流域で、大きく二流に分かれていたが、江戸時代初期の治水工事で概ね現在の流れになり、香林坊付近を流れていた川道は、鞍月用水や金沢城の外堀に利用された。川の名前は、佐奇神社(さきじんじゃ)のそばを流れる事から、佐奇川となり、訛って「さいがわ」となったとされている。河畔には、この川を愛した室生犀星の文学碑が建っている。
この川に生息する生物としては、アユ・ゴリ・マス・ナマズ・ドジョウなどの淡水魚が豊富である。2003年には、上流域の地層から全長が1メートルを越すとみられるサケの化石が発掘されて話題になった。
A6:このエッセイを通してわかったことは、犀川は何十年も昔からずっと、金沢の人々の生活と共に存在し続けていることである。暑い夏には、川の側に行くだけで涼しさを感じられるし、穏やかな川の流れを見ていると心が落ち着いていく。犀川という川は、街の風景を彩るものとしての存在だけでなく、人々の癒しの空間としての、存在感も欠かせないものになっているように思う。技術がどんどん進歩し、街が発展していくなかで、変わらない姿を維持することは難しいだろう。でも、犀川はこれからもずっと変わらぬまま、私たち人間を和ませる生活空間の一部であり続けてほしい。そして、そうあるために、私たち人間は川を愛する気持ちとそれを守ろうとする意識を忘れてはならない。